日産SAKURAの補助金記事でのコメントについて

ITmedia ビジネスオンラインに日産SAKURAに補助金100万円? 期待の軽BEVを潰す、無策な補助金行政という記事を書いた。

ポイントは補助金の過剰摂取はロクなことにならない。というかむしろ産業を潰しかねないからダメだと。悪しき前例である「家電エコポイント」を例に説明し、こんなことにしてしまって、一体どういう出口戦略を取るつもりかと、そこを追及した記事である。

この記事のコメント欄に、常連の読者の方が、なかなか良いコメントをくれた。お礼とともに回答をしたい。

補助金を出してまで後押ししなければならなかった製品やサービスなど、人類史上に存在しない。(後押しが必要な“体”になっていたものは除く)
〜中略〜
少額でも「補助金」を肯定するという事は、自由経済の原理に反し、計画経済的に作り出される需要を肯定するに等しい。

おっしゃることはとてもよくわかる。大原則として、補助金はダメ政策であり、計画経済的だという意味では深く賛同する次第である。多分この方とは経済に関するスタンスがとても近いので、そう考える理由も道筋も非常によくわかるのだ。

その上で、何故筆者がそういう理に外れたことを許容すると言うのかと問われれば、それは理が先行し過ぎだからと言うしかない。「自由経済的であるか」あるいは「計画経済(社会主義)的であるか」は、おっしゃる通り、こうした問題を考える上でのガイドラインであると思う。がしかし、そう考えるに至るメカニズムをよく点検すると「これは計画経済的であるからダメだ」という判定プログラムが自分の中で動いていないだろうか?

なので、筆者はその判定プログラムに必ずチェックデジットを組み込む様にしている。それは「過度にイデオロギー先行になっていないか?」という点検項目である。平たく言えば「全ては自由経済的でなくてはならない」という固執であり、それは実態より理論を優先する姿勢である。

ちょっと思い起こして欲しい。例えば中央銀行による協調介入はどうだろう? 論理的にはまさに計画経済的であり「神の見えざる手」に対する反逆である。多分もうここまでで先は想像できているとは思うが、仕手筋が量の力で、為替を動かして利を得ようとし、その動きにマーケットのレバレッジが掛かって雪崩的な荒れ相場が生じそうな場面において、協調介入を否定しても始まらない。スタートの仕手筋は確かに人為的な動きだ。しかしそれをきっかけにしたマーケットの動きは、ざっくり言って自然な現象である。しかしそもそも相場とは、本来その全てが純粋な人為の集合体であり、そこに思惑のない行動はない。人為の積み重ねによって自由市場はできている。その中から「作り出された需要」を正確により分けることが果たして可能なのだろうか?

もちろんだからと言って、「国家の経済運営の仕組みそのものが社会主義的になったって、それは巨大な自由経済の1パーツに過ぎない」などとまで拡大解釈するつもりはない。やはり自由経済は長期的に失敗を補正する仕組みを内在している分、計画経済よりは明確に優秀だと思う。もちろんしかしそれは「至高」であるとかそういうことではない。どれもが不完全な中で比較的マシだという話でしかない。

自由経済は、結構巨大なエラーを内包している。自由経済の核にあるのは、言うまでもなく「神の見えざる手」であるが、マーケットの調整システムとして「神の手」は神であるくせに完全ではない。というよりは、時間と許容範囲が「人」ごときとは違う。神の見えざる手は、100年、あるいは1000年、もっと言えば数十億年単位で辻褄が合っていれば良いのであり、淘汰のメカニズムの対象となるのは人類だって、生物全てだって、地球や太陽系まるごとだって構わない。

「ゾンビ企業は退場すべし」と全く同じ温度で「老いた星系は退場すべし」と考えられるから神なのであって、進化論を持ち出すまでもなく、それは多分宇宙の真理ではあるけれども、われわれ卑小な人類のスケールでは受け止めがたい。人類が滅びることなどシステム全体の一時的な揺らぎに過ぎない。全体で辻褄が合えば神にとっては構わない。先に神の手は完全ではないと書いたが、より正確に言えば、完全過ぎて人類には都合が悪すぎると言うべきだろう。

だから、「計画経済的だからダメ」という考えは、時に人類のスケールに合わない。経済の世界では「理論経済学」という揶揄がある。意味合いとしては机上の空論ということで、要するに、経済という目前の現象を理解・説明するためにスタートした経済学において、現実に目の前に起こっていることを理論的に「あり得べきでは無い」もっと言えば「間違った現象である」と理論で導いても仕方がない。今雨が降っているのに「天気図からして今雨が降るのは科学的に間違っている」と力説するに等しい滑稽さを含んでいるわけだ。

ということで、補助金はまことによろしくない。それは理論的にそうなのだが、人類の一個体に過ぎないわれわれとしては、長い時間を掛けて神の見えざる手が調整してくれることだけには期待できないので、経済のスタビライザーとして、使うことまでは否定できないというスタンスである。

いや話がさらに長くなって申し訳ないが、そもそも、基本的に計画経済的手法は、現象に対するブレーキの局面で使うべきであり、アクセル側で使うことは余りよろしくないと思っている。

例えば、環境負荷の高い事業を止めるとインセンティブが付くタイプの補助金はブレーキ的な使い方。環境負荷の高い事業の敵対的事業に補助金を出すのはアクセル型だ。

どちらも存在し得るのだろうが、とうもアクセル側は印象が悪い。そもそもアクセルはコントロールが難しいし、理屈的にもよくわからないものが多い。例えばインフレの抑制に、ブレーキとして金利を上げたり、通貨供給量を絞ったりするのはよくわかるのだが、リフレ派が言うように金融を緩和でアクセルを吹かせば物価が上昇するという話はどうもよくわからない。

こうなってくると、もはや「人間原理」あたりの話と同じで、頭の良い人の考えすぎの雰囲気が漂ってくる。人間原理を筆者が説明できるかどうかはよくわからないけれども、「人間という観察者がいるから現象が存在する」みたいな話で、日常の生活感の延長と断絶していて、理屈はわかるけれど肌感が全く持てない話になってくるのだ。

凡人の筆者からすれば、通貨量を増やしたらインフレになるという話はどうもしっくり来ない。実際にこの国で起きた現象として、日銀で大量の円を刷っても、金庫から金が出て行かないで、刷った札束が日銀の金庫の中でブタ積みになったまま市中に流通しないということは起きていたりする。無いのと同じ金である。

もしかしたら日銀が紙幣を刷ることは、それだけでは通貨量を増やしたことにならないから、通貨量を増やすために、日銀が国債や民間企業の株を買って、市中流通を実現するところまで含めてリフレ政策なのかもしれないが、それだと、そもそも「輪転機を回せば赤字は解消する」という説明ではなく「政府支出で景気回復」と言った方が正確で、それはケインズ派とどこが違うのかと言いたくなる。

そして、それ以前に、そこに根本的に存在する「正回転で成立するから逆回転すれば逆作用が起きる」という話がどうも腹落ちしないのだ。景気が良くなって物価が上がり、その結果貨幣流通が足りなくなるからと言って、貨幣流通を余らせれば、景気が良くなるというつながりが本当に双方向的なのか、どうも気持ち悪い。理屈と現実の乖離というか、シュレーディンガーの猫で言う所の、「ほんじゃ何か? 生きてる状態と死んだ状態の猫が重なり合って存在するとでも言うのか?」みたいな気分になるのである。

だから、本筋としてアクセル側政策の補助金はどうもイカンというのは読者の言う通りで、色々気持ち悪いのは同意なのだ。話が二転三転して大変申し訳ないが、ではアクセル型補助金を全否定するかというとそこは違うというややこしい話も書かなくてはいけない。

アクセル型補助金でも明らかに有効なものはある。多産多死型のインキュベーションなどはその好例で、多くの芽が生み出された中でいくつかが生き残ってくれれば、社会全体にプラスになることはあり得る。もちろん神の手に任せておいても、遠いいつの日かにはその種は芽吹くのだろうが、肥料と水を人為的にやって早く芽を出してもらうのもひとつのやり方だと思う。例えば芦ノ湖にある大きな岩を小田原まで運ぶとする。外輪山を越えるまで外から力を加えてやれば、あとは小田原まで自力で転がってくれる。これなら成立する。

今回の軽BEVの補助金は、どう見てもインキュベーション期の助成ではなく、普及期の助成なので質が悪いと筆者は思っている。アクセル側の、殊に普及期の補助金は、核分裂とか核融合の様になりがちだ。核分裂的に勢いが付いてしまって止められなくなるか、核融合的に、ずっとエネルギーをくべてやらないと現象が止まってしまうかだ。だから筋が悪い。

ということで、いや流石にこんなマニアックな話は、商業媒体には書けないので、ここにこうして書くチャンスをくれた読者には心から感謝を申し述べる次第である。

それとこういうレベルの高いコメントに混ざって、頭の悪い子ちゃんのコメントもあったので、そっちにも短文で答えておく。トヨタMIRAIの補助金は良いのかとか、テスラはどうだとか三菱のi-MiEVはどうなのかというヤツだ。MIRAIはインキュベーションだからOK。i-MiEVの時点ではBEVもインキュベーション。テスラは微妙だが、その初期においてはインキュベーションだったと思う。

それより何より、どのケースも出口戦略に困るほどの需要喚起にはなっていない。そのあたり本文にこう書いてある。

補助金は全体をじんわりと底上げする程度で留めておかないと、こういうオンオフを急激に繰り返す形になってしまう。需要が爆発するほどの補助金など外道もいいところだ。

軽BEVへの補助金は設計段階で需要爆発を誘発することは容易に予想できたはず。それを出口戦略も無しにやってしまったことがダメなのであって、補助金を十把一絡げに考えるデリカシーの無さでは、問題の本質はわからんと思う。



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