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【散る桜、残る桜も散る桜】

俺の親父が亡くなった。

2022年4月3日11時55分

満開の桜が咲く東京。
親父は74年の生涯の幕を閉じ、天国へと旅立っていった。


 
 
そしてふと、27年前に亡くなったかーちゃんの葬儀の時に、お坊さんが残した言葉(当時の俺にピンと来たのだろう、なぜかこの言葉だけ明確に覚えている)が頭によぎった。
 
「散る桜、残る桜も散る桜」



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▼ 親父の入院
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1ヶ月前、親父が熱があって入院したというLINEが堀口家LINEグループに、まーにーちゃんから送られてきた。(このLINEに親父も入っているけど、LINEを使いこなせず、一度も既読することはなかった。。ww)

コロちゃんでもないということで、さほど心配せずに、頑張れ親父!って感じでお見舞いには行かずに、猛烈大引越しで爆走していた。
 


 
それから1週間が経った頃、もう一通のLINEが届いた。

親父が予断を許さない状況になった。と。
 
 
引越しもまだまだ片付かずいていない状況だったが、週末にお見舞いに行こう、さほど緊張感もないくらいで過ごしていた。
 
  

そして、昭和医大に着いた。

親父はもうICUに入って、人工呼吸器を付けているとのことだった。

ICUが集中治療室ってこともよく分かってなかったし、人工呼吸器って聞いても、まぁ人工呼吸器ね、そんな程度の認識で、記念に写真でも撮っておこう、そんな気持ちだった。
 


が、親父の姿を見て、そんな気持ちは吹っ飛んだ。
 
  

「親父、おつかれさま」

親父に会った時に、最初に浮かんだ感情を言葉にした。


「親父、頑張れ!」ではなかった。
 

まだ、親父は生きていた。

けど、どこか俺の中では、親父が死んでいくことを受け入れていた。


もちろん、諦めているわけじゃなくて、頑張って回復して、またみんなでご飯に行って、旅行にも行って、昨年末引き継いだ堀口不動産のこともしっかり共有して、、、まだまだこれから、頻繁でなくとも毎年、堀口家としての思い出を積み重ねていこう、そんな思いはあった。

 
けど、

「親父、おつかれさま」

そう親父に声をかけた。

 
握ったその手は、まだ全然暖かくて、人工呼吸器に繋がれていたがスースー胸を膨らませて呼吸をしていて、気持ちよく眠っている、そんな親父だった。

 
コロちゃんのことのあり、面会時間は10分程度。


病院の外に出ると、満開の桜が出迎えてくれた。




桜が咲いているうちに、もしかするかもしれない。
そんなことを思い、一旦東京を後にした。
 

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▼ 思い出を創ってくれた親父
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親父、待っていてくれたんだろうなぁ。。

お見舞いに行って帰った翌日、ぼんやりと思った。


ICUに入って、もしかしたらすぐに死んでしまうこともあったかもしれないけど、家族みんなに会うために、頑張って待っていたんだなぁって。


「親父、ありがとう」
 

年に一度の堀口メンズ旅行(親父、まーにーちゃん、こーにーちゃん、直人)、恒例となって、楽しかったね。



きくえさん(親父に25年以上連れ添ってくれて、親父のメモには妻と書いてあった)も交えての、忘年会/新年会での親父の仕切り、楽しかったよ。



堀口不動産を継ぐことになって、具体的な業務のことは全く引き継いでないけど、看板を守れたこと、少しは安心してもらえたかな。



軽井沢の別荘も欲しいって友達5人くらいいるよ。また詳しいこと教えてね。
 
、、、まだまだ、これから、、、


そんな思い、可能性も信じながら、一週間が経った頃、親父の脳波が平坦になったとのLINEが入ってきた。


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▼ 人は必ず死ぬ。だから、、、
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親父が入院してから、約1ヶ月後、親父は天に召された。

穏やかな顔をしていた。



なかなか湧かない実感は、それこそ食事会をしたり、旅行に行ったり、引き継ぎで親父の事務所を頻繁に訪れていていたからだろう。

けど、親父は亡くなった。
 

葬儀の日取りも分からないけど、その日の夜行バスに乗り込み東京は品川の実家に戻った。

実家に着くと、相変わらずナナちゃんは吠えている。マリちゃんは落ち着いていて、リンちゃんはマイペース。(親父が愛していた娘たち、わんちゃん)




ずーっと親父のそばに居てくれたきくえさんが、親父との写真を見せてくれながら、親父との楽しかった旅行の写真を見せてくれた。

いい笑顔、楽しんでいたんだなぁ、人生を。

そんな風に感じた。



月曜日に着いて、葬式は木曜日になったとのこと。3日間の時間が空いた。

会社の手続きで役所や都庁を何往復もしたけど、葬式までにひとまずやれることはやった。つい 
でに本籍地も品川に戻した。


 
家にいる時、ふと親父との出来事を思い出した。

ここ最近は、みんなで仲良く、食事会や旅行をしているが、かーちゃんが亡くなった27年前からの、俺が高校生になった25年前から大学を卒業するまでの実家にいた期間、何度か親父に切れたし、正直、存在がウザかった。


当時付き合っていた彼女との交換日記を、部屋の掃除をした時の勢いで捨ててしまった。と。

開き直って、悪気はなかったと反省していない親父を見て、キレた。

親父を殴ったら大変だから、横のガラス扉を殴った。

血がめっちゃ出た。今でも右手にはその傷が残っている。




階段のところに開けた穴も、その時のものだろうか。。




友達が泊まりにきた時に、全裸で登場し、「雑煮食う?」ってのも、今でも笑い話しになってるよ。



それもこれも、全てが親父との思い出。

もう作ることができない、親父との思い出。

良いも悪いも存在しない、親父と俺との思い出。



いっぱい、ずっと、迷惑、心配かけてたけど、、

実はすごく俺のことを理解してくれていた親父。(昨年末の食事会で「直人は自由な子なんだ」って言ってた。そして、引き継ぎの中でピンと来ない点を伝えたら、そのまま受け入れてくれた)


「親父、おつかれさまでした。」


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▼ 堀口家、全員集合
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葬送式というキリスト教、親父が毎週通っていた教会で行うこととなった。

4月7日、東京は心地よい春風吹く晴天だった。



かーちゃんが生きていた時からかーちゃんと仲良くしてたっていう女性も話しかけにきてくれて、「三男坊くん?あらー面影ある。覚えてる?あなた、よくはしゃいでたわよ。」って、、

俺の思い出の中では、毎週の教会の時間は苦痛でしかなく、早く帰りてーって思っていたと思っていた。

が、、、楽しんでいたの????

かーちゃんと過ごしている、一緒にいた時間、なんだかんだ嬉しかったのかなぁ、、そんな当時小学生の自分を知る人にも会えて嬉しかった。



親父を知る知人や教会の方も来てくれた、そういう意味では、趣味、友達って大切だなぁって感じさせてくれた。

人生で初めての趣味となった《石》。それを通じての《ご縁》。
より意識して、大切に育んでいこう、そう思えたよ。


また、赤ちゃんの頃以来の甥っ子、姪っ子にも会えた。

↑直人が16歳の激レア写真!!!


23.20.19.14歳。。。直人はマイナス20歳理論のため19歳なので、同世代(笑)

日本各地を巡って、引越ししまくっていること、石に取り憑かれていること、、、いろいろ喋って、仲良くなった。(と、思っている)



親父、

親父の葬儀のおかげて、新たな堀口家の形が生まれそうだよ。


キリスト教では、死はイエス様の元へ還ることがから怖くないって言ってたらしいね。
天国でも引き続き、楽しんでね。


寂しさはあるけど、親父が書き残してくれたこと、


「死を見つめてから、いかに生きるかを考えてください」


そうするね、僕らは生きることができるから。



火葬場、教会に戻ってから、堀口家集合写真を撮った。



全員集まったのは、今回が初めてのことだったから、思い切って「撮ろう!」って言った。

最初で最後〜って冗談交じりの本音で言ってたけど、解散後の親父がいなくなっての4人でのいつもの中華屋で思った。



年に一度はみんなで集まって、「毎年堀口家の集合写真を撮ろう!」

それが、僕にとっての先ずは、「いかに生きるか」だよ、親父。




みんな言ってたよ、自分のためよりも、人のために生きた人だったって。

透析に入ってからも社会福祉士として人のために仕事をしていたと。

自分も人もどっちも大切にしていたと思うよ、親父は。



あぁ、、

今書きながら、去年の草津温泉で、ロッジに泊まった時、親父の手を引いて歩いたこと、なんだかとても愛おしく感じたのを思い出したよ。




親父、こっちは今、桜が満開だよ。



俺もいつかは散る桜になるけど、イメージでは後50年かな。



親父、ありがとう。

親父、バイバイ。

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