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あぁ青春の「ロケット花火戦争」

夏が来ると思い出す。
あの頃わたしの1年は夏の8月7日の夜。その瞬間のためにあった。

地元の富山県魚津市では
七夕は旧暦で行うため8月7日に行った。
そのため、夏休みに入ると地域の小学校3年生から中学3年の男子が
地域内の神社に昼13時に集合する。大人はいない子どもの仕事なのだ
手には各々家から「鉈」や「鋸」をもってくるから
はた目から見ると物騒な集団である。

神社の賽銭箱の前にはその年の中3のリーダー格が鎮座し、その人の号令で「いくぞ」といわれ全員でぞろぞろ早月川の河川敷に鉈や鋸片手に歩いていく。
夏休みに入って毎日集まって子どもだけで河川敷の生い茂った木々や藪を刈るのだ。まさに芝刈り。それを河川敷の片隅に凄まじい大きさになるまで積み上げる。子どもたちはそこで鉈や鋸の使い方を先輩方から教わった。
 8月7日当日、神社の竹3本を切って河川敷までえっさほいさと運び
三本を針金で先端を結わえ、積み上げた芝の山(数メートル)のまわりにピラミッド状に立てる。先端にはなんだか鏡餅のひらひらの紙みたいなものをつけてお祓いする。

でもってその夜暗くなってきたころに、子ども達と消防団(これは大人)がきてその神々しい芝の山にガソリンだか灯油をぶっかけ火をつける。数メートルの芝山は火に包まれ小高い河川敷の火柱は村の隅々から見えるのだ。

その火柱を合図に各家々のどでかい七夕の笹飾りが近づいてくる。
正確には笹飾りについた提灯がずっと遠くからちかづく

そして火柱に笹飾りをなげいれて、願い事は煙になって天に上がっていくのだ。

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そして

いよいよ

メインイベント。

消防団の大人たちは
「気を付けてやんねんぞ」といって帰っていく。3年4年生は強制的に返される残っているのは5年生以上の中3までの男子。
河川敷の下に降りていき、おもむろにみんなが自分の「ブツ」を取り出す。
ロケット花火だ。このあと通称「戦争」というロケット花火の打ち合いが始まる。

子どもたちはこの瞬間が楽しみで夏の毎日炎天下につづく芝刈りを耐えることができる。
なんせ、お年玉でためた数万円をロケット花火につぎ込むのだ。

安くて大量に入っている「空中旅行」という中国製のロケット花火
量は多くないが日本製の「月旅行」

残念ながら空中旅行は多く手に入るが数本に一本導火線がジリジリではなく瞬間に消えてなくなり、かなりの確率で手に持っている段階で暴発する。
一方メイドインジャパン月旅行は絶対に導火線は瞬間で消えることはない。
まずどれを箱買いでチョイスするかを求められる。
つわものは一人4箱ぐらい買っていたようにおもう。

みんなで大町にある「よろこびや」というおもちゃ屋さんにいって
大量にロケット花火を買い込み自転車の籠満載にいれてかえってくる。

今思うといろんなルールが暗黙にあった。
①使用可能火器
・ロケット花火(空中旅行及び月旅行)

・煙幕

・ハエ(筒状のものに羽がついていて上昇する)

・連発花火(筒状のものを手に持って8連発などポンポンと出るやつ・・・導入された当時は脅威であった)

②使用禁止火器

・笛ロケット(かなりの火力がある為、服が燃える)

・地上に設置して使用する打ち上げ花火

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何かをしたら勝ちというわけでなく
ただただ両陣に分かれうちあうだけの遊び
みんな手にはロケット花火と蚊取り線香を持っている
蚊取り線香が導火線に火をつけるのに一番早いのだ。

発射には子ども心にいろんな工夫をしていた、あてるのが下手な4年生の時は細い竹を持っていて、導火線に火をつけると竹の先端に放り込み、

相手に向けて竹を向ける。するとまっすぐに飛んであたりやすいというわけだ。

しかし、上級生はみんな導火線が本体につくぎりぎりまで手元で粘って
ひょいと上に向かって投げる。
すると弧を描いて相手に向かって飛んでいき
闇夜から「ぎゃッ!」って声が聞こえる。

四つん這いになって蚊取り線香で地面に並べたロケット花火に火をつけようとしていた時に「コロコロコロ」なんかがお腹のもとに転がってきたこともある。

「ハエ」だ!!

って思った時には回転しながら四つん這いの中で上昇。
服が燃えてころころジタバタして消化した記憶がある。(確かに今もいっぱいやけどの跡がある)

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いろんなことがあった。

あるときは闇夜の敵陣になにか黒い影がボ―――っと見える
なんやっておもったら、肩に禁止のはずの打ち上げ花火を担いだ親戚のだいちゃんやった。だいちゃんがにかっとわらうと、肩の花火が着火し、自分のおなかに花火が当たる・・・・からのそこから5つにちっちゃいのがわかれて肩やズボンにあたる→燃える→コロコロして消化

 戦争前日の薄暗くなったころに上級生のこーちゃんと私が殴り合いのけんかになった。今思うとすごいなと思うのが、殴り合いになっても周りは何も言わず、行き過ぎと感じたときに止めに入った。
 やりすぎやと言われて間に入られたとき、私の眼の下が切れていて血が目に入っていた。すると誰も何も言っていないのに私とこーちゃんは「すまんかった」と言って仲直り。
私たちが何よりも怖かったのは子どもだけで問題を起こして、戦争を含めた伝統を大人が「危険」という理由で禁止することだった。
血を垂れ流しながらみんなで○○ちゃんのお母さんが看護婦さんだと話し合い。夜にぞろぞろと訪ね、「何も言わず止血だけして私が転んだということにしてください」とみんなで頭を下げた記憶がある。

また、炎天下が連日続いた時は、戦争中に変なところでその辺のススキなんぞが燃え出す。すると上級生が「スト―――――っプ」っていうて
「消化!!」の合図で一時停戦。燃え広がるとただの火事なので全員で消しに行く。

みんなで
子どもだけの世界を守りたかった。

こども達だけだから
責任も自分たちでとらんといけん。

誰も何も言わずに中3になれば地域の小学生に指揮をし
上級生は下級生に道具の使い方を教える


いつから「七夕(戦争)」っていう伝統がはじまったかはわからない。

けれど今は子どもも減り、自分達から数年後の下の世代に
恐れていた大人が判断した「危険」という一言で数十年続いていたであろう子どもたちの伝統「戦争」は終止符を打ったらしい。

うちの地域のうちらの世代は全員人にロケット花火をあてるのが上手いというどこでも使えない世にも奇妙な特技を持っている。

子どもだった私たちにとっては

表の「七夕」よりも

裏側の「戦争」が伝統文化だった。

あぶないから、ちょっとこわいから子どもっておもろいんやけどなぁ

と自分の体の火傷の跡を見て思い出す。

今の仕事して子どもたちにこれは言われへんし、
やってみろともいえない。
だからこそ
消防団の「気を付けてやんねんぞ」という言葉の後ろに
「たのむで」「自分のけつは自分でふけよ」など
いろんな思いがのっていたんだろうなってのは大人になったからわかる。

安心して大怪我しないようにだけ遠くで見守り
子どもたちのおもろい・やってみたいを応援できる存在で

子どもたちの世界を守れる存在でありたいなぁ。


(このNoteはロケット花火の戦争を推奨するものではありませんし、今思うと目に当たったら失明するだろうし、やらないでね。)



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