第1回 源平合戦と鎌倉幕府の成立 その1

第1回 源平合戦と鎌倉幕府の成立

こんにちは。今回から日本史の鎌倉時代について解説していきます。
対象としては日本史を選択している高校生や、学び直しをしたい大学生、社会人、少し背伸びをしたい中学生を考えています。ぜひ最後まで読んでください。

ⅰ) 源平の争乱

平清盛後白河法皇を幽閉し、平氏による専制的な支配体制を確立していた。しかし地方武士などはこの体制に反発し、一般に源平合戦と呼ばれる、治承・寿永の乱が始まることとなった。

この契機となったのは、以仁王による挙兵である。清盛が安徳天皇を即位させて外戚として権勢を振るうようになると、後白河法皇の皇子である以仁王は源頼政とともに大寺社を味方につけ、平氏打倒の兵を挙げた。しかし清盛は迅速にこれに対応し、頼政は宇治で、以仁王は奈良に向かう途中でそれぞれ敗死した。しかし以仁王の平氏打倒の呼びかけに地方の武士たちは次々に応じ、治承・寿永の乱が始まった。

これら地方武士の中で筆頭勢力であったのは、源頼朝である。頼朝は義朝の子であり、平治の乱の後、伊豆へと配流されていた。彼は1180(治承4)年8月、関東の地方武士である北条氏とともに挙兵をした。石橋山の戦いで敗れ、一時安房国に身を隠したものの、その兵力はみるみるうちに膨れ上がり、10月には鎌倉入りを果たした。平清盛は反乱鎮圧のために平維盛を東国へ派遣するが、平氏軍は富士川の戦いで大敗し、京都へと逃げ帰った。平氏は体勢を立てなおそうとしたが、平清盛が死去したこと、畿内・西国を養和の飢饉が襲ったことにより、大打撃を被ることとなった。

頼朝の挙兵から1ヶ月ほど後に、信濃では頼朝の従兄弟にあたる源義仲が挙兵した。義仲は北陸へと進出して急速にその勢力を拡大し、1183(寿永2)年、この地に派遣された維盛の追討軍を破った。この戦いは倶利伽羅峠の戦いと呼ばれ、牛の角に松明を付けて夜襲をかけたとされる逸話が有名である。義仲はその勢いのままに京へと攻め上り、平家は都落ちした。

しかし義仲は都での振る舞いから後白河法皇の反感をかってしまう。法皇は頼朝に上京を促し、頼朝は京に源範頼源義経を軍勢とともに派遣した。義仲はこれと戦うも敗れ、近江国粟津で戦死した。

この後、後白河法皇は頼朝に平氏追討の院宣を与え、源氏は一の谷で平氏を攻撃した。義経の活躍でこの戦いに勝利した源氏方は、その後屋島の戦いでも平氏を破り、ついに壇ノ浦へと追い詰めた。この壇ノ浦の戦いに敗れた平氏一門は安徳天皇とともに入水し、滅亡した。

後白河法皇は頼朝の権力伸長を懸念し、義経を重用するようになった。法皇は義経に頼朝追討の院宣を与えたが、武士たちは頼朝方につき、義経は孤立した。義経は奥州の藤原秀衡のもとへ落ち延びたが、秀衡の死後、その子の泰衡によって殺された。泰衡は義経を殺すことで頼朝と協調することを画策したのだった。しかし頼朝は奥州に大軍を派遣して、奥州藤原氏一族を滅ぼした。こうして頼朝は敵対勢力を一掃し、武家の棟梁としての地位を確固たるものとしたのである。


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