第2回 北条氏の台頭と執権政治 その2 

ⅱ)承久の乱

 武士勢力が各地で伸長すると、公家の経済的基盤であった荘園が地頭によって侵され、公家たちは危機感を増大させた。

 朝廷では成人した後鳥羽上皇が後白河法皇の後継者として権力を握った。後鳥羽上皇は八条院領長講堂領などの天皇家領を手中に収め、これらを恩賞として新たな朝廷の軍事力を編成していった。西国の武士や御家人の一部は西面の武士に任じられ、大寺社との戦闘などに従事した。

上皇は源実朝を通じて鎌倉幕府に対して影響力を行使しようとした。上皇は実朝に破格の官位を与え、母の実家から妻を選び、また学問の師として源仲章を鎌倉に送った。しかし実朝は頼家の遺児である公暁によって暗殺され、朝廷と幕府の関係は急速に冷え込んでいった。1221(承久3)年の5月、上皇はついに北条義時追討の院宣を下し、ここに承久の乱が始まった。

しかし多くの武士たちは上皇の呼びかけには応じず、彼らは鎌倉幕府のもとに続々と集結した。義時は長子であった泰時を大将、弟の時房を副将として、大群を京都に派遣した。結果、朝廷軍は兵力で大きく勝る幕府軍に敗北し、京都は幕府軍によって占拠された。その後、乱の後始末は泰時らに任された。まず後鳥羽上皇の嫡孫であった仲恭天皇は廃位され、上皇の兄の子であった後堀河天皇が即位した。その後後鳥羽上皇は隠岐に、順徳天皇佐渡に、土御門天皇土佐(のちに阿波)にそれぞれ流された。このような治天の君が処罰されるという前代未聞の出来事の結果、朝廷の権威は失墜した。また、上皇方の貴族や武士の所領は全て没収され、関東御領に組み込まれた。この所領は全国3000ヶ所余りにのぼり、功績のあった御家人に地頭職として与えられた。この地頭は新補地頭と呼ばれ、この給与の基準は新補率法と呼ばれた。

乱の後始末を済ませた後も泰時と時房は京都に残り、彼らは六波羅探題と呼ばれるようになった。これは執権に次ぐ要職となり、北条一門の有力者が任命された。幕府は乱が再発しないように朝廷の監視に努めた。特に軍事面が留意され、朝廷は独自の軍事行動が取れなくなった。

このように承久の乱以後、朝廷と幕府による公武二元支配は崩れ去り、幕府が朝廷に対して優位に立つこととなった。この後、幕府は皇位の継承順にさえも口を出すようになり、治天の君はもはやその絶対性を内外に主張することができなくなった。

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