第3回 蒙古襲来と幕府の衰退 その2

ⅱ)蒙古襲来

 モンゴル一部族の長として生まれたテムジンは、諸部像を統一して帝位につき、チンギス=ハーンを称した。彼の指揮のもとでユーラシア大陸にまたがるモンゴル帝国が完成し、彼の孫にあたるフビライ=ハーンは国号をと改めた。フビライは南宋の征服を進め、さらに東南アジアや高麗らも支配下に置き、ついには日本征服を計画するに至った。

当時の鎌倉では北条時宗が執権となり、元への対応を指揮していた。元はたびたび日本に国書を送り朝貢を要求したが幕府はそれを黙殺し、九州の御家人たちに異国への防護を固めることを指示した。

1274(文永11)年に元はついに日本への出兵を開始し、元兵2万、高麗兵1万を船900隻に乗せて日本へと派遣した。元軍は対馬を制圧して壱岐、松浦を襲い、博多湾に侵入した。幕府は元軍の集団戦法や「てつはう」と呼ばれた火器に苦戦したがなんとかこれを迎え撃ち、内部対立などの影響などもあって元軍は朝鮮半島の合浦へと撤退した。これが文永の役である。

時宗はその後、異国警固番役を強化して九州北部の守りを固め、また防塁を構築するなどして元の襲来に備えた。元は南宋を滅ぼすと、1281(弘安4)年に2度目の日本遠征を始めた。東路軍は元、高麗、江北の兵4万、江南軍は南宋の水軍を中心とする江南地方の兵10万でそれぞれ構成され、対馬、壱岐を侵した後、博多湾へと攻め入った。十分に準備をしていた幕府軍はこれを迎え撃って敵の上陸を阻止し、東路軍は江南軍との合流を待つために一度撤退した。その後東路軍と江南軍は合流し、総攻撃の準備を整えたが、まさにその時大型の暴風雨が元の大船団を襲った。元船4000隻の大半が沈み、兵たちは溺死した。日本はその後暴風雨が収まってから元軍を総攻撃し、多くの捕虜を得た。結果元軍は4分の3を失い撤退していった。この事件が弘安の役であり、文永の役と合わせて蒙古襲来と呼ばれている。

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