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信仰って数字じゃない、なんてことは百も承知

 だれでもそうなのかもしれないが、嫌なことがあると気分は落ちるし、良いことがあれば上がる。10日晴天が続かないように、いいことばかり起きるなんてことはない。そんなこと百も承知だが、どうしてもその日の成果に一喜一憂してしまう。

 信仰生活において数字的な成果にはまるで価値がなく、いかに心が成人するかしかないと思う。しかし、性格なのかとにかく数字が気になる。何人の人と出会えて、おさづけが何回できて、何回天理教の話ができたか。そういうことばかりに心が囚われてしまう。
とくにおさづけができなかった日は、よふぼくとして何もつとめを全うできなかった、と決まって落ち込む

 しかし、悪いことの後には良いことがある。何度もおさづけを断られた次の日に、3、4回おさづけができたりする。怒られた直後に通い先ができたり、ジュースをお供えしてもらったり、不思議と下がれば上がるように導いてくださる。本当に神様の親心に甘えてばかりだなと反省させていただいている。

 先にも書いたが、成果ばかりを求めているから感情が起伏するのだろう。成果ではなく、心の成人にスポットを当てないことには、いくら成果を出しても神様の望むところではない。
成果が出たから喜ぶのではなく、にをいがけに歩ける体を喜び、人と話せることを楽しむ。また、怒られたときにどういう悟りをすべきか考える。
そうやって信仰を味わいながら通ることが大事ではないかなと、今更ながら感じている。

この記事を最後まで読んでいただきありがとうございました。皆さんの時間に少しでも僕が関われたことが大変嬉しいです。次回の投稿もがんばりますので、よろしければ応援を。