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これだけで足りているのだろうかという恐怖

 日々にをいがけに歩くなかで、おさづけを一回取り次ぐ。それだけのことが難しい。道行く人に声をかけるが、はいどうぞと快くおさづけをさせてくれる人は少ない。
周りの目もあるだろうし、忙しいだろうし、おさづけで病や痛みが消えるだなんて信じられないだろう。さまざまなハードルを超えないとおさづけまでたどり着くことはできない。
やはり、ただ一回のおさづけでも、神様に働いてもらわなければ取り次ぐには至らないと思う。


 では、神様に働いてもらうにはどうすればいいのか。真っ先の思いつくのは理づくりである。ひのきしんやおつとめ、にをいがけ。そういったことを通して、神様に喜んでもらいお働きいただく。だからこそ、おさづけができるし、人が助かる。そういう理屈、道筋を作ることが理づくりだと、ぼくは解釈している。


 実際に理づくりを始めると、なんだかとてもいいことをしているようで気分がいい。しかし、次第に強迫観念が襲ってくる。これだけでいいのか、あともう少しやったほうがいいんじゃないか。そういうものに迫られるようになってきて、少しずつやる気がなくなってしまう。


 天理教では陽気ぐらしこそ神様が望まれていることだと教えていただく。どんなことも喜びの心でないと、神様の思召に適うところではない。理づくりという行いは間違ってはいないけれど、義務的にやっていてはいつまでたっても神様は喜んでくださらないだろう。

理づくりにおいて一番大事なことは、理づくりを喜んでできるよう心を成長させることだと思う。不足に思うこともせず、思う通りにならないと傲慢にならないように。そういう心になるために明日からもせっせと理づくりに励みたい。

この記事を最後まで読んでいただきありがとうございました。皆さんの時間に少しでも僕が関われたことが大変嬉しいです。次回の投稿もがんばりますので、よろしければ応援を。