幸先が悪いことが将来に悪影響を与えるのかー天理教ー

今日愛知に来て初めてにをいがけをした。にをいがけと言ってもほんの2時間のことで、路傍講演をしたらそれで終わりくらいのものだった。

初日ということで、OBの方と一緒に回ったのだが、その方々は正座をしてお話しをするスタイルらしく、ぼくもそれのお供をさせてもらった。まず天理教の話を少ししてその後よろづよ八首を踊り、そこから座り込んで人間創造の話をされた。

まさか愛知に来て3日目にして、駅で正座しながら路傍講演をするなんて夢にも思っていなかったので、衝撃的な時間だった。道行く人からの白い目を向けられ「みっともないから辞め」と通りすがりのご婦人に注意をされ、これが正しいやり方なのかなと考えさせられた。信仰を求めるがゆえに、逆に人を不快にさせてしまった。

注意された出来事を振り返っていて、それでも正座をしてやる意味を考えていた。天理教は天然自然の教えだという。どんなものでも重力によって下に落ちるように、実った稲穂が垂れ下がるように、神様のご守護というものも当然下に下に溜まっていくものだと聞く。

ぼくは昔から高慢な人間だと言われてきた。正直、路上で正座をするぐらいでこの高慢さが消えていくとは到底思えない。もっともっと低く低くならねばここにきた意味がないんじゃないか。ただこの愛知に布教をしにきたのではなく、自分をもっと昇華できる奇跡的な出来事に出会うためにきた。ならば、例え注意されようともやっていったほうが良いのではないかと思う。



この記事を最後まで読んでいただきありがとうございました。皆さんの時間に少しでも僕が関われたことが大変嬉しいです。次回の投稿もがんばりますので、よろしければ応援を。