見出し画像

さようなら、おじいちゃん。

令和6年7月31日(水)。
全国で観測史上もっとも高い気温を記録するような夏。93歳のおじいちゃんが往生した。加齢による衰弱と肺炎が組み合わさったことが原因だった。亡くなってから2日経った8月2日(金)に親戚一同だけでお通夜が営まれた。
東京、千葉、大阪、神戸、散り散りに暮らしていた親戚一同が会するのは初めてかもしれない。

8月1日(木)昼過ぎ、千葉に住む姉と1歳11ヶ月になる姪、それとトイプードル1匹を迎えにいった。まだおじいちゃんが亡くなったという実感はない。仕事で翌日まで動けないという姉の旦那に変わって、大阪まで連れていくことになったのだ。


2024年8月1日。お通夜の前日。姉夫婦宅にて。愛犬ココとれいちゃん。れいちゃんはおじいちゃんにとっては最初のひ孫になる。

3時間以上かけてようやく祖父母の家に到着する。もう時間は21時を回っていた。いつもおじいちゃんが座っているはずの場所には誰もおらず、家にはおばあちゃんとその娘たちがいた。横に目をやると白と銀の布で包まれたおじいちゃんがいた。まだ汗ばむまま、おじいちゃんの前に座り、ろうそくに火をつけ、お線香をあげる。「顔を見てあげて」と母が言い、顔にかけられていた布をゆっくりとめくりあげる。いつも見るのと何一つ変わらない寝顔だった。

おじいちゃん、名前は城戸茂利。昭和6年(1933年生まれ)。1933年は海を挟んだ満州では満州事変が勃発、『フランケンシュタイン』やチャールズ・チャップリンの『街の灯』など往年名作映画が公開され、遠く離れたニューヨークではエンパイアステートビルが完成した。高倉健やいかりや長介も同じ歳に生まれている。昭和6年に起きた出来事を聞いているだけではるか遠い昔のように思えるが、おじいちゃんはそんな時代に生まれたのだ。

博多・篠栗という田舎で、お寺の子として育った。おじいちゃんの母親はお寺の子であったが、親に決められた相手と結婚することを嫌がり、家を出て好きな人と結ばれた。お寺からは勘当されたが、その結果生まれたのがおじいちゃんだった。なんとロマンスに満ち溢れた生い立ちだろう。


おじいちゃんの出生地。博多・篠栗のお寺。

戦争が終わってしばらくしてから、働くために大阪に出てきたおじいちゃんは『世界長』というシューズメーカーの工場に勤めた。同じくその工場に勤務していた吉岡とみ子、おばあちゃんと出会った。当時のおじいちゃんの写真を見て、孫たちが口を揃えて言うように、当時のおじいちゃんはかなり男前だった。九州男児の男っ気も、周囲の女性からすると魅力的だったのだろう。

たまたまおばあちゃんの家で従兄弟が見つけた20代の頃からおじいちゃんがつけていた日記には、その当時のことが鮮明に描かれていた。おじいちゃんは何人か仲の良い女性がいて、一生忘れないような大恋愛をして、大失恋をして、恋愛で紆余曲折あって最終的にはおばあちゃんと結ばれた。後々になってわかるのだが、出会った頃はおばちゃんのことは好きではなかったらしい。日記には「どうも吉岡とみ子という女は好きになれん」という言葉や、意図的に工場の退勤時間を吉岡とみ子とずらして、意図的に避けている時期もあったみたいだ。絵に書いたような物語ではない人間臭さが、今となってはより愛せる一面かもしれない。

何はともあれ、昭和36年(1961年)、2人は結婚した。城戸茂利29歳、城戸とみ子22歳、その年の差は7歳。

おじいちゃんとおばあちゃん、結婚式。

2人の新婚旅行は九州・大分だった。当時の新婚旅行としては関西から九州にいくというのは非常に稀で、おばあちゃんは周りの同僚から羨ましがられたという。その時の写真が多く残っている。夕食を囲む2人、映画のロケ地となった記念碑の前で並ぶ2人、幸せに満ち溢れた2人の顔は今とはまた違った表情をしている。本当に楽しかったのだろう。

新婚生活からまもなく、城戸茂利31歳、昭和38年(1963年)に第一子が生まれた。名前は照美、私の母親だ。車の前で嬉しそうに我が子を抱き抱えるおじいちゃんの写真は今も残っている。この文章を書いている今の自分と同じ歳。昭和37年は1950年代から続く高度経済成長期の真っ只中。テレビ普及率が約50%に迫る勢いで、新しい生活、新しいエンターテイメントが毎日を変えていった。第一子の誕生は、何よりもおじいちゃんのライフスタイルを変えていっただろう。


第一子、照美を抱き抱えるおじいちゃん。まだ子供を抱くのに慣れていないような固い顔。

そこから立て続けに第二子が生まれた。またまた女の子だった。おじいちゃんは2人の子宝に恵まれた。

しかし、靴の工場で作業をしていた際に、運悪く油圧プレスにゆびを挟まれてしまい、左中指を失ってしまうのだった。元々左利きだったおじちゃんは、それまで大好きだったギターを弾くこともできなくなる。ギター教室の先生を依頼されるほどの腕前だったおじいちゃんにとって、この事故はあまりにも悲惨すぎた。
工場の生産ライン上での勤務を辞めざるを得なくなったが、同じ工場で警備員の仕事につくことができた。これが第2のキャリアとなった。工場の廃業まではそこで勤め上げることになる。


工場の警備員として第二のキャリアをスタートさせたおじいちゃん。

工場の閉鎖後、第3のキャリアとして選んだのは学校の用務員さんだった。指を若くして失くしてしまったとはいえ、手先が起用だったおじいちゃんはその起用さと真面目さでいくつかの学校で看板や棚を作ったり、植栽の手入れをしたりを生業としていく。今でも思い出すが、何かが壊れた時や新しいものが必要になった時、よくおじいちゃんはノコギリと釘をもって庭で作業をしていた。大工のようなその姿は、子供ながらにして男前だと思っていたのをよく覚えている。


学校の用務員時代のおじいちゃん。棚やついたて、看板なども手作業で作った。退職時は当時の学校の子達から多くの感謝文をもらう。おじいちゃんの方針は「誰かのために働くこと」だった。

平成元年(1989年)、次女であった美恵子が男の子を出産した。初孫だった。平成2年(1990年)には、長女の照美も女の子を出産。その後は数年おきに新しい孫が産まれて、孫に囲まれる生活を送っていた。

第二子、美恵子の結婚式にて。橘川徹と結婚。橘川美恵子に。
長女・照美の家族、森田家孫一同に囲まれるおじいちゃん。令和元年、自宅にて。

令和6年(2024年)、コロナ禍から2年が過ぎようとしていた頃、93歳という歳には抗うことができず、老衰と肺炎が重なったことで亡くなった。亡くなる直前の1ヶ月ほどは入院生活が続き、大好きだったお酒を飲むこともできず、人工呼吸器をつけるような毎日が続いた。亡くなる数日前にテレビ電話をした際には、あまり孫たちの呼びかけにも反応できていなかった。

最後の時間は本人にとっても辛いものだったかもしれないが、闘病期間は長くはなかったので、その点は最後まで人生を楽しめたのではないかと思う。

亡くなる前の歳の年末、おじいちゃんはトイレに行くのも辛そうにしていたが、孫やひ孫が話かけるとしっかり反応していた。私がおじいちゃんの隣でご飯を食べていると、「直紀、お酒あるか?」と根っからの酒好きのおじいちゃんはいつも通りお酒を勧めてきた。帰る時も「身体に気をつけてな。」と、自分のことよりも私たち孫の健康を心配してくれていた。あの声を聞いてから、たった半年で帰らぬ人となってしまったことは、告別式で棺を閉じるその瞬間まで信じられなかった。

棺に入って冷たくなったおじいちゃんが、夜中にすっと起きてきて、いつも通りお酒を勧めてくれるんじゃないかと、いつも通り「とみ子!」といかにも九州男児という口調でおばあちゃんのことを呼ぶんじゃないかと思っていた。

棺を閉める寸前、おばあちゃんは何度も「ありがとうね、おじいちゃん。みんなが来てくれて幸せやったね。」と語りかけていた。64年間、不器用で寡黙で気難しかったおじいちゃんをいつも支えてきたおばあちゃん。そのお別れの言葉を聞いて、ようやくおじいちゃんが亡くなることの重みを実感できた気がする。

葬式にいっても泣くことはないんじゃないかと思っていたが、おばあちゃんの姿と言葉を聞いて、涙が止まらなくなった。親戚全員が泣いていた。

好きとか嫌いとかそんな簡単な話ではなくて、出会ってから亡くなる今この瞬間までの全ての出来事、全ての関わってきた人たち、その全部の感情が込められた「ありがとうね。」にあまりにも胸をえぐられた。なんて愛おしくて、尊い言葉なんだろうと。

棺に入ったおじいちゃん。火葬場での最後のお別れの時。真夏の猛暑で汗ばみながら見たあの最後。ゆっくりと静かにしまっていく鉄の扉。その奥の棺で眠っているおじいちゃんに向かって、おばあちゃん、母親、そして妹が「おじいちゃん、ありがとう。」と大声で呼びかけていたあの景色は、一生忘れることがないだろう。

信仰心がない自分にとっては、おじいちゃんは極楽浄土にいったなんて思わない。でもこれからお墓参りに行くたびに、今残された親戚みんながおじいちゃんを思い出して手を合わせる光景を、愛おしく思えるはず。

ありがとう。
さようなら、おじいちゃん。


2019年、自宅にて。城戸茂利88歳、城戸とみ子81歳。おじいちゃんが30代の時に使っていたフィルムカメラを修理して、2人の写真を撮影しにいった。恥ずかしそうにしながらも笑う2人。おじいちゃんから譲り受けたカメラを見せると、おじいちゃんは当時このカメラでどんな写真を撮っていたのか嬉しそうに話していた。


2024年8月4日。森田照美(旧姓:城戸照美)の長男・森田直紀。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?