「オッペンハイマー」を観てめちゃめちゃ大森靖子を想起した話。
クリストファー・ノーラン監督作「オッペンハイマー」を観たらめちゃめちゃ靖子ちゃんの映画だなぁと思った、てまぁそんな話を書けば掲示板でもいじられるわな、なんてことは百も承知で、でもそもそも本作を観てもいないヤツがそれについて語ることが1番の映画への冒涜だと思ってるから相手にもならない。
オッペンハイマーという人物と大森靖子を重ねてるという話ではなくクリストファー・ノーランが「オッペンハイマー」という映画において描いた世界、その作品で表現されたものが重なったという話なのだから。
ここまで言っても伝わらない人がこの文章を読んでいたら癪なので更に断っておくが、僕は音楽や大森靖子というアーティストに対して以上に「映画」というものに対して敬虔な気持ちをもって生きている。軽々しく狭い視野で映画作品を自分の懐におさめようなどという浅はかさでは語っていない。
と、偉そうな前段はこれぐらいにして、映画「オッペンハイマー」についてふれたい。
まず本作においてオッペンハイマーという人物は特に聖人君子に描かれているわけではない、というか冒頭からコイツはヤベェヤツですよというエピソードが描かれている。そしてその辺の人たちとは違う景色が見えロクに共感もされない領域で生きていることも描かれる。
また、同じ物理学者たちと交流しながら物語は進むが誰1人として彼と同じ視座には立っていないし近しい者たちが異なる立ち位置にいることを目の当たりにすることによって彼の孤独は際立っていき、既婚者と不倫するわ自分が結婚しても浮気するわと埋められない部分をどうにか埋めようともがく(世間的にいう)人手無しな面までもが思い切り描かれている。
そんな彼が学者としては崇高に高みを目指すという欲求を持ち続け辿り着いた先が原爆の開発であり、目的のみが合致する軍人と手を組み、全くもって同じ方向など向く気もない各分野の学者どもを束ねて己れを肯定するための“作品”たる原爆制作へと邁進する。
結果それは成功に至るわけだがその制作の過程において彼は統率をとるという行為に追われ、研究者たる本分と己の成すべき業務は大きくかけ離れてさえいく。そしてその成功が生んだ産物が恐るべき存在であるということに気づき彼は悔い始めるのだが世間の賞賛と己の温度差により一段と彼の孤独は加速し、気持ちを分かってもらえると期待して本音を語った大統領(そこに本音をもらす時点で彼は色々壊れている)には弱虫呼ばわりされ微塵も共感など得られない。そしてあげくにはその成功にぶら下がってきた周囲に裏切られ成果たる原爆のみが搾取され赤狩りという時代の流れの中で素行の悪さを良い材料にまんまと失脚させられる。彼の本質は大きく変わらず、何ならば原爆投下という大罪によりむしろ人道的な心が芽生えたというのにも関わらず彼の心などお構い無しに全く真逆に世間から批判の対象として扱われる。英雄として祭り上げられまでしたというのに、という容赦無く反転する世界。
本作が描いているのはこうした歪な人物が歪なりに極めて純粋に高みを目指した先に見たとてつもなく歪な世界の孤高の景色、凡人が生まれ死ぬまでそう見ることのない光景である。
ここまで映画が何を描いたかを記した上で、それのどの辺がどう重なったか、を書くのは野暮すぎる気がしたから具体的にふれない。察してくれ。
本作を観賞し終えて、そりゃ靖子ちゃんがこんな映画を観りゃさぞやえぐられただろうしそんな景色を描いてくれる作品があるのかと感銘を受けただろうな、と。クリストファー・ノーランがそんなのをこの題材で描いているなどと思ってもいなかっただろうから尚更。
そう少なくとも僕は感じた。またスゴいタイミングでこんな映画が公開されていたもんだなぁ、と。
ちなみに、一般的な伝記映画は基本、時系列に沿って主人公の栄光と挫折を描きがちだが、本作は原爆開発という成功に向かう道筋と失脚し糾弾される成功後の彼が同時進行で冒頭から描かれている。そんな構成をしているから本作は難解だとも語られるのだがこの構成にこそ面白味がある。華々しく向かう彼の姿と完全に弱者となった彼、それらは全く別物のようでありながら同じ人間でありその両面を併せてこそ彼が体を成すという事実、その実態が終盤に浮かび上がる構成の妙。
本作には更に複雑な点があり、裏主人公として「アマデウス」でいうところのサリエリのような視点の人物を軸にしたパートが併行して存在している。この“凡人”のパートがあることにより尚更オッペンハイマーという人物の孤独が際立つのだが、よくもまぁここまでを盛り込んだなぁ、という。ちなみに、この“凡人”の動向の動機というものがまた生々しく痛々しい。人の運命というものはこういうボタンのかけ違いのようなレベルが肥大化して左右するのだという避けられたであろう軽率さが生む悲劇。
(ちなみにそれが救いかどうかはさておいてオッペンハイマーの孤独に対する理解者が全く現れないわけではない、が、そんな詳細な映画のネタばらしがこの文章の目的なわけではないのでそこはこれ以上掘り下げない。)
この映画は本当に優れている。だが被爆者・被爆国への配慮に欠けるとの指摘を受けていたりする。そりゃ人道的観点で見ればそうかもしれない。だが本作が目指したのは反戦映画ではない。そんなところに焦点を置いていない。大衆に何かを促す気など更々に無い。
本作はただただ人類の歴史を転換させた天才とまで称された者だけが見た、彼だけの景色を描こうとした、むしろ途轍もなく微細な誰も描いたことのない個の“点”(これを“核”と称すと上手いこと言いすぎ)を目指した作品に他ならない。
お前らが勝手に期待していたものと違うと騒ごうが知ったこっちゃなく、ここに在る芸術的創作の価値を下がる権利は誰にも無いという話。
「ちなみに」と続けて後半にまたつらつらと書き連ねてしまったが、これらの話を蛇足ととるか、それもまた然りと付随した話と捉えるかは皆さんにお任せ致したい。
最後に、余りにもキャッチーだからそこを切り取ってこういう話してると思われるのはなぁ、と思いつつも触れずにはいられないオッペンハイマーが残した自分を称した発言をここに記して終えたい。
オッペンハイマー
「我は死神なり。世界の破壊者なり。」
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