自己満足11 ー ファン

現実逃避の自己満足も11回目。最近似たような話しかしていない。まぁ、器用じゃないから思いを消化できないと次の考えは浮かばないわけで、たまにTVやSNSで推しの話を聞いたりして違った角度から思いを書くのだけれど、根本は同じことなんですよね。それにめげずに勢いで書いていきます。

今日のワイドナショーの発言から、お笑いファンが新しいファンを排除している発言について。気づかないうちに同じことが自身にも来ているのではないかと気づいてしまいました。

昔からのファンがいてくれたからこそ彼らは今があるわけで、すごいというか素敵というかありがとうとかいう気持ちが一番です。ここは間違えないでください。

ファンなら自分という存在を見つけてもらいたいという気持ちはもちろんわかりますし、私もそのうちの一人です(だからノートにダラダラ書いているわけです)。

ただ、インライやTwitterを見ると、たまに怖くなる時があります。ファンの中でもピラミッドができている感じです。相手を知らずに勝手に思ってしまうイメージで、一部のファンの発言にひいてしまうわけです。ファンの方々からしたら、一緒に盛り上げようという思いの方が多いですから話せばわかる場合が多いと思うのです。ただ、SNSで自分の意見を言うと真意がきちんと伝わらず、熱量が多くなればなるほど意識の差が生まれてきます。だから、推しを推しまくって自分なりの推し方でいいと思うのですが、たまに違う意見に対して噛みつかれるとちょっと違うのでは?と思うわけです。

もちろん、公的秩序に反していたり、知らないことに対して事実を教えることは必要ですが、そこから相手を弾劾したり直すところまで追いかける必要はないと考えます。

何が言いたいかというと、「想いの暴走」は相手を威嚇してしまう。おそらくこのようなことはほんの一握りの発言ですが、その発言が目立ってしまうのです。たった一つの発言でも知らない人が見たら怖いということになったりします。----もしかしたらこの記事も怖い部類に入るのかな????

あと、どのような団体でも、統率が取れすぎていると一種の宗教のように感じてしまいます。その雰囲気が怖いにつながって、嫌いということになるのではないかと考えます。この件について、宗教的とそう思わない団体の違いなどもう少し考えてみます。

争いがなくならないように、アンチや批判する人はなくならない、周りを変えることではなく、自分の意識を変えていこうという提案です。

ファンとして満足していたら、周りを巻き込まず(場合によっては1度は強引に誘ってもいいかも)十二分に楽しんでいれば、ファンがなお増えていくのではないかな?

具体的な例でいうと、グッズやチケットがあたらない場合でも、「ほかのファンが楽しめれば」と思えば外れたーと悲観するより楽しくなるし、インスタのコメントが読まれなくても、他にたくさんのコメントが流れていてすごいとかコメントのセンスが素敵とか思えれば 「読んでくれない、悲しい」なんてことは少なくなるような…。これも理想論かもね。