自己満足9-いじり

ランキングライブを見て思うこと。成長している人は、いじられても面白い。

ここから先は、私の偏見に満ちた自己満足の主張です。2番、3番、・・・番煎じ的内容の、勝手な評論意見なんて聞きたくもない人はここまでで十分だとおもいます。読んでくださってありがとうございます。



いじりと似ているが、全く違ういじめついて考える。いじめている側は同じと思っているケースが多いかも。

いじめの対する最大の防御は無視だと子供に教えました。孤独に耐えられるのならいじめる人々を無視し続ければ、相手も無視といういじめになる。そこにいなかったような扱いをされるわけだが、ずっと居続けるつもりがないコミュニティー(例えば、学校とかサークルとか)にしがみつく必要がなければ、そのコミュニティーを抜ければいいし、自分の目標があったら目標達成に向けて期間限定で何かを成し遂げて抜ければいいのではないでしょうか?

幸い、娘の場合は、クラスは大変でも部活が楽しかったのでクラスの孤独には関係なくそれなりに楽しい学校生活を過ごし、無事卒業できました。

逆に、相手が自分を無視しないということは、相手は自分を恐れているか認めているわけです。それに気づいたら、自分はいじめられているという認識から外れることができるのではないでしょうか?

コミュニティーにい続ける理由がはっきりしていれば、それに向かって努力をすればいいだけのことだと思います。努力と成果をみて、周りの見る目も変わってくるはずです。

話はもとに戻って、いじりについて。いじりがいじめに変わるときは、いじられた側が嫌悪感を持つかどうかの違いではないでしょうか?

笑いの世界では、いじられておいしくなる人いますよね。おいしくなるか、ならないかの違いは、受け手が卑屈になるかならないかの違いではないでしょうか。実際そう思っていなくても態度が悪いだけで卑屈に見えるわけなので、見せる人たちは気を付けてほしいです。

卑屈に受け取らないから周りにプラスのオーラをまとい面白くみえ、結果おいしくなる。それを見て後輩とかが慕う。だからなおさら自身がつく。というプラスになれれば、いいのでしょうね。卑屈になる(みえる)人は、いじられる内容に対して負のイメージを持っているから卑屈に見える(あるいはプライドが邪魔する)のかな。なんか幼子を育てている時に重なります。舅姑から、生まれてきた我が子に対する言葉1つ1つにかみついて負のオーラを出して悪循環になるか、「そうですかー。生きていてくれるだけでありがたいです。」とか言って聞き流して明るいオーラを出すかで付き合い方が変わってくることに似ています。(中には一筋縄でいかない舅姑がいるので、そのような方は別の付き合い方があるとは思いますが…。あくまでも私の経験論です)

頭のいい人は、理想と現実を見極めることができています。頭が悪いといつまでも理想に縛られ、自分はこうじゃないとか言って成長せずにい続けます。できないこと(かなり難しいこと)はだれにでもあります。情熱だけで理想を手に入れた人は、その情熱から、努力の方向性を間違わずに進めたほんの一握りのひと。努力するうちに賢くなっているはず。賢くなってもなお理想を追い続けた結果じゃないかな。

普通の頭のいい人は、理想と、現実のはざまで、自分の目的を見失わず方向転換をうまくできているような気がする。

1行目の内容から離れてしまいましたが、努力をきちんと続けるのも一つの才能。ふつうはそれを努力を見せずに努力を続けられればいいけど、賢くないなら、人にみせて続けるのも1つの方法で、続けることで見えてきたこが1つ賢くなったことではないかな。結果成長する。この場合の成長は技術だけでなく人間性も成長しているからまわりが安心していじることができる。だからおもしろい。

最近のランキングライブ面白くなってきました。アンケートの内容もですが、各々のいじり方がお笑い芸人っぽくなってきた(高等な喜劇はその場は不快感がありましたが、あとからじわじわきています)その後の対応の仕方とかも。

来週の劇場でのライブ楽しみ半分、不安半分。(配信チケットもちろん購入済みです)楽しいライブになればいいな、もしそうならなくても次につながるライブになってほしいです。