見出し画像

DJ WADAヒストリー Co-fusion編 ①

またもや前回の更新から間が空いて
すっかり心地のよい季節になってきましたが
数年前から悩まされている
坐骨神経痛が緩和されてきたことで
季節の移り変わりと自身の老いを感じる
BBAな私の今日この頃。

さて、自分でもどのあたりまでどんな感じで
語っていたのか、わかんないくらいに
とりあえずのお久しぶりなのですが
このnoteの存在、はたまたDJ WADAの存在を
皆さんは、覚えてくれているでしょうか?

なんつって。

*

前回は青山『maniac love』の
オープンに纏わるお話でしたね。
これは彼のキャリアを語る上では
絶対に欠かせないトピックであることは
皆さんもご承知かと思います。

彼の周辺は『maniac love』の存在と
リンクするかのように目まぐるしく変化し、
かつての精彩を再び取り戻し、
そして、さらに賑やかになっていきます。

しかし、彼の周辺を賑やかにしていったのは
『maniac love』の存在だけでは
ありませんでした。

そう、もうひとつの
彼のキャリアを語る上で欠かせないトピック、
Co-Fusionとしての活動について。

母親の死から『maniac love』まで、
波乱の私生活&DJ生活に流される一方で
彼はディスコ『neo』時代に始めた楽曲制作を
当時の仲間 HEIGO TANI氏と二人で、
コツコツと続けていました。

飄々としていて気まぐれ、そして不器用。
限りなくシングルタスク。
そんな彼が波乱の私生活の傍で
楽曲制作を続けられていたことは
今、生活を共にしている嫁からみると
少し不思議な感じもするのですが、
これも『maniac love』に至る経緯同様に
TANIさん等、外部からの働きかけかけに
よるものだけだったのでしょうか?
もしかしたら働きかけに加えて
単純に彼が好きで興味のあることだったから
という部分もあるのだろうし、
当時、まだ日本では
テクノやハウスを作っている人間が
少ない中での制作は
“新しいこと”への刺激に
溢れていたのかもしれません。

この頃、どういう気持ちで
制作を続けていたのかを本人に尋ねてみても
私生活に色々事件がありすぎて
気持ちどころか起きていた事実さえも
殆ど記憶がないとのことで。。。

とにかく、TANIさんとは
他のメンバーを加えてバンドを組んでみたり等
(〈SPIRAL RECORDS〉から
 いくつかコンピレーション参加の形で
 リリースしています)
試行錯誤しながらも楽曲制作を続け、
93年頃には二人での制作が定着していきます。

この頃TANIさんは
所属していたディスコを辞めた後、
職業としてのDJは続けずに
会社員として
プログラミング(MS-DOSの)の
仕事をしており、
そのためいつも作業は日曜日。
週に1回のペースで
WADAがDJの仕事後に
当時実家住まいのTANIさん宅へ通い
互いにアイディアを出しながら
TANIさんがマニュピレートする形で制作し
そのスタイルは2003年にWADAが
左耳の聴覚を失うまで続いていたようです。

ちなみに、TANIさん曰く、
WADAはいつもDJ明けで辛そうだったと。
WADA曰く、TANIさん宅で頂いた
お母さんの手料理が美味しかった。
とのこと(笑)

こうして互いの限られた少ない時間と
ありあまる若い情熱(?)を注いでできた曲が
94年、世界へと発信されることになります。
(リリースまでの動きは主に93年ですが)

WADAにしてみれば、
リリースの決定は青天の霹靂でした。

まぁ、今でもそうなんですが
彼の興味はどんな手法で
どんな世界観を盛り込むか、
クオリティをどこまで追求できるか、等の
作品を作り上げるところまでで
止まってしまうようなところあって
それを多くの人に届けるという
欲みたいなものはなくはないのですが、、、
ちょっと薄い。

そういう部分を
これまでたくさんの方々に
フォローしていただいて
本当に幸せ者だなぁ、と思うのですが
それは今は置いといて、、、

彼が制作のその先は
すっかりぼんやりしているのに対して、
パートナーであるTANIさんは
その辺りは抜かりなく(笑)

できた曲―
「HANA」「Love to Heart」「PLUS1」の
デモテープを
WADAには内緒で、
自身が買ったレコードの
ラベルに記載してある住所宛に
ジャンルを問わず
片っ端から送っていたのです。
(今のようにインターネットが
 普及していないためEMSでね。
 大変だったと思います…。)
その数、20社ほど。

なぜ内緒だったかというと、
相談するとWADAが色々拘って
決められなくなりそうだったから…
らしいのですが
WADAの扱いに関しても
抜かりがないな(笑)とも。

こうしてTANIさんが送ったデモテープは
世界各国の様々なレーべルへと渡り
その中から、リアクションのあった
ドイツの気鋭レーベル〈Plastic City〉との
(今ではジャーマンハウスの老舗ですね)
ライセンス契約に漕ぎつけます。

先にも言ったように
この頃はまだインターネットが
普及していない時代。
やり取りは基本FAXで、
英語の堪能なFumi Kondo氏に
翻訳をしてもらいながら
話を進めたそうです。

〈Plastic City〉での
リリース決定後程なくして、
デモを送った中で
TANIさんの本命だったレーベルのひとつ、
ハウスの名門〈TRIBAL AMERICA〉からも
オファーがありましたが
Plastic Cityの当時のA&R
Alexander Hendorf氏の助けや
〈TRIBAL AMERICA〉サイドの
理解もあって、
本ライセンスを〈Plastic City〉、
サブライセンスを
〈TRIBAL AMERICA〉として
両レーベルとの契約を
結べることになります。
(〈EMOTIVE RECORDS〉からも
オファーがあったそうですが、なぜか
途中で連絡が途絶えてしまったそうです。)

こうして、94年、
Atom名義で〈Plastic City〉から、
時を置かずして
〈TRIBAL AMERICA〉から、
と、二つのレーベルから
ほぼ同時に作品を発表し、
彼らの存在を世界へアピールすることになり、
その後の活躍の足がかりをつかんだのです。

ということで、今回はこの辺で、、、

あ、余談ですが、
TRIBALのジャケがね。
こんな感じで男性の裸ネタ…↓

二人はなんか誤解されてたんじゃないかw
という説もあったりなかったり…(嘘)

んで、ご参考までに↓

Love to Heart

PLUS1

HANA

今回はWADAがあまりに覚えてなさすぎて、
パートナーであるTANIさんに
お力を借りました!
快くご協力いただいたTANIさんに
感謝するとともに
貴重なTOP画像を提供してくださった
(記事よりも少し後の二人です)
JOEさんにも感謝です。

お二方、改めてありがとうございました!

そしてこのnote存在を忘れずに
読んでくださった皆様にも…
どうもありがとうございました!!

次の更新はいつになるか
わかんないですが、
良かったらまた次の更新も
お付き合いください⭐︎

ではでは、皆様、どうか引き続き
楽しいGW後半をお過ごしくださいませ!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?