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DJ WADAヒストリー Co-fusion編 ③

さて、先週までの雨、雨、雨は
強風でどこかに飛ばされて
台風一過の清々しいお天気になりましたが
皆さまいかがお過ごしですか?

今年もすでに3/4が過ぎてしまって
私といったら口を開けば、
まー、健康関係の話ばっかりで
すっかり立派なおばちゃんです!
年齢よりも少し老化が
早いような気がするのは
多分、旦那に若さを
吸い取られているんだと思います(嘘)

そんなことはさておき、
少し前に数年ぶりのCo-Fusionを
青山ZEROで堪能してきました。
おっさん2人(失礼!)が
久しぶりに仲良く並んでいる姿を見るのは
とっても感慨深かったです。
私にとっては青春だったからね。

なので、彼らの持ちネタがかかる瞬間は
ざぞ盛大に青春が
フラッシュバックするもんだろうと思いきや
意外とそういう感じはなく、
もう20年近く前の曲だったりするのに
時代を感じさせないパワーを感じました。

改めて、やっぱりかっこいいよ。
Co-Fusion。
またLIVEとかやればいーのに。
(身内びいきなのは許してw)

今回機会を与えてくださった
オーガナイザーさんはじめ
クルーの皆さんには感謝です。

ということで今回も、
そんなCo-Fusionのハナシから。

*

97年、ドイツとアメリカの
2つのレーベルからのリリースにより
日本より一足先に海外で認知され始め、
その後98年、
〈Reel Musiq〉からのリリースによって
国内でもその存在を確立していく二人。

97年に発売された
〈Sublime Records〉のコンピレーション
「Sublime The Adolescence」 に
Co-fusion名義で収録された
「TONE OPEN」が
さらに彼らに追い風を吹かせます。

「TONE OPEN」がどんな曲かは
まぁ、聴いていただくのが一番早いですが、
(前回も貼ったけど
しつこく貼っておきますね→

当時、面白い方向に発展しかけていた
ブレイクビーツに
WADAが好んで聴いていた
60’sのヨーロッパジャズの
エッセンスを盛り込んだ曲で、
WADA的にはテクノの音の中にも
生音を感じられる楽曲を目指して
作ったそうです。
なぜブレイクビーツだったのか、というと
先にも書いたように
時代の流れというのもありますが
ブレイクビーツによって
ジャズドラムのような
イメージを持たせられたら、
という思惑も少なからずあったみたい。

また、当時登場して間もない
「ReCycle!」という
リズムサンプルを
細かく分解できるソフトを導入し、
リズムの組換えが容易なったというのも
この曲の誕生に大きく寄与したとか。

この曲が出来上がった時WADAは、
初めて何かの殻を破ったような、、
それまでのXXっぽさとか
〇〇っぽさみたいなものがない
“自分達らしさ”を確立したような
ある種の達成感を感じていたそうです。

TANIさんは、
この時、既存のリズムを
細かく切り刻んで組み換えて
新たなリズムを作る事に
無心になってハマっていたそうで、
夢中になって作れるものを見つけた、
という感覚があったそうです。
また、この時だけに限らないが
こうやって楽器の技術革新により
新しい音楽が生まれてくるという事を
リアルタイムで体感できたのは
今思えば良い経験だったと。

こうして
「Sublime The Adolescence」が発表されると
その1曲目に収録されたこの曲に
海外から好意的なリアクションが
届き始めます。
届いたFAXの送り主の中には
ビッグネームもちらほら。
(前々回もそうだけど
“FAX”に時代を感じるよね!)

そしてこれを機に
〈Sublime Records〉からのオファーで
「TONE OPEN」を軸にした
アルバム「Co-Fu」の制作へと入ります。

「Co-Fu」に収録されている曲に対して
何か思い入れは?と
WADAに訊いてみたところ
「自分たちの1stアルバムだから全部だよ」
という記事にしようもない返答だったので
こちらもTANIさんに泣きついてみたところ。。

TANIさん的には、
作る曲のジャンルは違うけれど
当時傾倒していた
PhishやMedeski Martin & Wood等の
ジャムバンドの精神を
目指していたそうです。

また、ROLANDのJP8000で制作した
4曲目の「Cycle」のノイズは
我ながらミラクルだったと。
あと、8曲目の「Jongleur Grey」は
WADAが85〜6年頃に作ったギター曲を
4トラックのマルチカセットテープから
わざわざ機材をレンタルして
取り出して使用したらしいです。
(これはWADAも言ってました)

その他は、
全曲完成させ、曲順を決めた後、
CDに書き込む間
二人でずっとおしゃべりをしていて、
(当時はまだ音楽CDを個人で焼く事が
 一般的ではなかったそうで、
 専用のドライブが必要なうえに
 焼くのにも3時間くらいかかったそうです)
出来上がりをそのまま二人で
当時宇田川町にあった
〈Sublime Records〉の事務所に
持って行ったことが
すごく印象に残っているとのこと。
(仲良しだなー。)

こうして、その他には
特に大きなトラブルもなく
比較的安産だった
彼らの1stアルバム「Co-Fu」が
発表へと向かうのですが
発表を前に彼らはCo-Fusionとして
初のヨーロッパツアーを行います。
廻った都市は、
WADAの記憶なので
漏れがあるかもですが、、
ロンドン、
コペンハーゲン、
ストックホルム、
ベルリン、
ライプツィヒ、
スペイン。

ライプツィヒでは
〈Sublime Records〉のレーベルメイト
MAX BRENNANと一緒で、
(ドイツでのセッティングは
Frank Muller氏がしてくれたみたい)
スペインでは
YAMAさんや SUSUMU YOKOTAさんなどの
〈Sublime Records〉のクルーと合流して
バルセロナで開催された
Sónar98でのプレイでした。

WADAにとっては初の海外遠征!
かと思いきや、
実はこの少し前に彼は、
DJ WADAとして
フランスでプレイする機会に恵まれています。

彼が最初に海外でDJした場所は、
「Co-Fu」発表前の97年、
パリの老舗『Rex Club』。

この頃はまだ発表されていない
「Co-fu」はもちろん
「TONE OPEN」も
atom・As two men名義での
リリースの影響もさほどない頃で、
それなのになぜパリで、かというと、
知人のツテで招待してもらった
ダンスミュージックの
見本市(?)的なイベント
「MIXMOVE」に
足を運んだついでのプレイでした。

今の彼から想像するに
初めての海外でのプレイは
きっと緊張するなり
ナーバスになるなりしたに違いない
と思って質問してみたのですが、
当時の彼はまだチャレンジャーのような存在。
(今でもそうなんだけどねー。)
『Rex Club』という大きな懐で
特に気負いすることもなく
遊びに来ていた
Daft PunkのThomas Bangalterや
Laurent Garnierさんにも会えて
嬉しいと感じたりと
フレッシュさ満載で
楽しみながらプレイできたそうです。

この時、『Rex Club』の他にも
KIHIRA NAOKIさんと合流して
パリ郊外のクラブ(名前は忘れたそう)や、
いくつかのラジオ局でプレイしたらしく、
この時すでに知った仲だったKIHIRAさんとは
食事をしたりと
楽しい時間を過ごしたそうです。

この後、2度目の海外遠征として
Co-Fusionでのヨーロッパツアーを行い、
そのすぐ後、98年8月にソウルで
Co-Fusionとしてではなく
DJ WADA単独でのプレイをしています。
これも友人のツテでの出演でしたが
この頃韓国では、
それまで禁止されていた
日本の大衆文化が
正式に解放される直前だったので
持って行ったレコード70枚を1枚1枚
税関で当時は持ち込み禁止だった
“MADE IN JAPAN”じゃないかどうか
確認されたり(税関の人、お疲れ様。。。)
入国したらしたで
韓国メディアからの取材などで
ちょっとした騒ぎだったそうです。

そうして98年9月、
ついに彼らの1stアルバム
「Co-Fu」が発表され、
彼らの活躍は
ますます華やかになっていきます。

*

ということで、そろそろ疲れたので
今回はこの辺で!

え?
肝心のCo-Fusionヨーロッパツアーは
さらっと触れるだけ?
とお思いかもしれませんが、
いやいやいやいや、
この話題に、ここから触れると
また少し長くなりそうなので
これはまた次回のお楽しみということで。。。
(好きなものは後にとっとくタイプ!)

ではでは!






あ。そうそう、
話の流れとは関係ない
今追っている時間よりも遡る
彼のエピソードをひとつおまけで。
(と、いうか早く言ってよ〜、なんですが)

91年頃にWADAは
友人の音楽誌編集者について
UKに取材旅行に
連れて行ってもらったそうです。
(経費は雑誌社持ちで。バ!ブ!ル!)

そこで、第一線のアーティストの
スタジオの雰囲気だとか
その場の空気みたいなものに
触れているのですが
(余談ですがAlex Patersonに
「音を立体的に捉えるには?」って
訊いたりしたそうです。
その返答は興味があれば
彼に直接聞いてくださいw)

なんだかなー。
私のような人生に何も
変わったイベントなんて
起こりそうもない凡人からすると
こういう経験って、
この後のCo-Fusionでの活躍の
準備だったんじゃないかなんて
気がしちゃいます。

当の本人は、
その時インタビューした相手と
共演する日が来るなんて
(A Guy Called Geraldなんかも
 その時会っているそうです)
人生何があるかわかんないね〜。
なんて呑気に言っていました。

皆さんも
人生、何があるかわかんないですよ?!
なんつって。

と、どうでもいい話でした!

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