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DJ WADAヒストリー ディスコ編[第2期③]

いつの間にか桜の季節。。。
すっかりご無沙汰してしまいましたが…
覚えていてくれているでしょうか??
ようやく少〜し仕事の波も落ち着いた?かな?
ということで、、、

前回の記事は渡英のあたりまででしたね。
ようやく続き、書きます!

✳︎✳︎✳︎

時間的にも経済的にも恵まれた環境の中で
音楽への興味を深め、渡英を決めた彼ですが、

ロンドン行きへの衝動を駆り立てたのは
探求心や向学心。
しかし、これは表面上の理由で
実はまだ他の理由がありました。

それは、誰しもがしばしば通る
「自分はこのままでいいのか」期。

当時の彼はまだあまり
自覚していなかったようですが
振り返って今思えば
まだ自覚できないほどの小さな不安が
この頃には確実に、
彼の心の片隅にあったそうです。

毎日友人と飲んで、DJして、寝る、
という繰り返しの日々。
満たされているといえば満たされていて
それが故の贅沢な悩みなのかもしれませんが
WADAくん、26歳。
年齢的にもそろそろNEXTステージに
挑戦し始める頃だったのかもしれません。
この、満たされ、
悪い言い方をすればマンネリ化した毎日に
疑問を持ちはじめていました。

さらに〈DJ〉という職業。
当時は30歳頃で潮時なんて言われる中での
焦りもあったのかもしれません。
(いまや30歳なんて“若手”扱いなんですが!)

海外に行くと何かが変わるかもしれない。
若い彼はそんな淡い期待を抱いて
憧れの地へと思いを馳せ、
そして“新しい何か”を、
あるいは“新しい自分”を求めて
1985年6月、初めての海外
憧れのロンドンへと旅立ちます。

期間にして、約2ヶ月弱。
「渡英」と書くには大げさすぎて
憚られるほどの短い時間ですが
当時はインターネットなんてない時代。
頼る伝手もなく、言葉も自由にならない
雑誌やガイドブックで情報収集はできるけど
現地のリアルタイムな状況は
行ってみないとわからない。
そういう環境に勢いに任せて
初めて単身で乗り込むわけです。
今で考えれば大したコトではないのですが、
当時の彼にとっては、それなりに冒険でした。
(私も初めての海外旅行で
 英語も日本語も通じない土地に行った時は
 ドッキドキでした…いい思い出。。。)

規模の大小を問わず
冒険には困難はつきもので
しかしその困難も
持ち前の仔犬のような頼りなさ(笑)を
遺憾なく発揮することで、
乗り越えていきます。
様々な現地の人に助けられたおかげで
(恐らく、現地の人は
彼を中学生くらいに思ったはず)
さほど危ない目にも会わず、
短期の語学学校に通い、友人を作り、
現地のTimeOutを見てライブに行き、
ディスコに行き、
バカンスのような…いや、
もうバカンスですね、
バカンスの日々を過ごします。

さて、現地でDJ修行するわけでもなく、
何か仕事をするわけでもない、
コネクションをつくるわけでもない、
たった2ヶ月弱の短期間、で
彼の望む“新しい何か”
つまり変化は、あったのでしょうか?

ありました。

彼の望んだような
ドラスティックな変化ではなく
彼自身も気付けないほどの
小さな変化ではありましたが
ありました。

変化の渦中にあるときって
意外と本人はそのことに
気付かないんですよね。

これまで音楽活動をする中で
それなりの競争をかいくぐってきたとはいえ、
音楽との出会いも、バンド活動のきっかけも、
DJという職業に就いたことも、
そのほとんどは流されて、の結果。

そんな彼が自発的に新しい環境に飛び込み
その環境に順応し、
新たな経験をしてきたということは
彼に小さな自信を与えました。

そして、どういう心の動きだったか
具体的な何が彼を突き動かしたのかは
思い出せないそうですが、
ロンドンで何かに触発されたのでしょう、
帰国後ほどなくして
4チャンネルのカセットMTRを買い
なぜか持っていたRoland 606と
ギターとシンセ(POLY-800)で
曲をつくりはじめます。

そして仕事以外の時間の殆どを
曲づくりに充て、没頭します。

しかし、まだこの頃は
誰かに聴かせるためではなく
あくまでも自分のためだけの音楽。
ヘンリー・ダーガーのように
(そんなかっこいいもんではないですが!
本人談)
誰にも聴かせず、知らさず、
ひっそりと自室で曲を作り
そして、それに没頭することで
彼は自分の中に奥深く入りんでいき、、
そして、入り込みすぎることに
なってゆくのです。。。

と、いうことで。

久しぶりの更新はこのあたりで。
次回は入り込みすぎた末の弊害なんかでも!

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