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DJ WADAヒストリー ディスコ編[第2期⑥]

気づくと、もう2016年も
半分終わっちゃうんですねー。
これを始めて半年以上経ったのか、、

最初は色んなものをどんどん忘れる
忘れっぽいWADAの過去を
ヒマ潰しにメモでもしておこうか。
誰かがそのうち清書してくれるかもだし?
という、ほのかな期待を抱きつつ始めた
ラフラフのこの文章が
なんだか予想外にたくさんの方に
読んでもらえているようで
正直、驚いています。

フリーランス稼業にはありがたいことで
(普段、私はフリーでデザインとか
 イラストとかやってます)
2016年に入ってこっち、お陰様で忙しく
更新頻度はめっきり落ち、
いつまで続くのか、
いつ“今”に追いつくのか
よくわからない状態ですが、
彼の生きてる限り
私の生きている限りは
(こういうシニカルな表現を彼は嫌うけど)
ゆるゆると続けていければと思ってますので
どうか、しつこいようですが
ゆるゆるとお付き合いいただければ
幸いです…。

ということで、続きです。

✳︎

DJ SOMAさんとTANIさんとの出会いにより
ひとりの殻を飛び出した
WADAくんの〈曲づくり〉ですが、
他者と制作を共にすることにより
いつしか自然に
(前投稿の彼女の助言もあって、ですが)
コツコツとひとりで作り溜めた曲を
人に晒していくようになります。

そうして間もなく
彼の曲を聴いた『Gil's』時代からの友人が
また別の友人に聴かせ、
その友人がアレンジして、
そのアレンジ版を聴いたまた別の人物が
レコードにしようと言い出し…
あれよ、という間に
89年、人生初のEPを
リリースすることになります。
(わらしべ長者的ラッキーだよね。)

Topの画像が記念すべき最初のEPのカバー。
で、こっちが裏面→
(note、画像を文中に差し込めないの
不便。。)

SIDE-Aの2曲が彼の曲で、
SIDE-ONEの曲が
DJ SOMAさんとTANIさんとWADAの
3人でRemixした曲。
(TANIさんのクレジット。笑)

ちなみに、最初に曲を聴かせた
『Gil's』時代からの友人が
Sprcial ThanksにあるHiro Fujiiさんで、
アレンジしてくれた友人の友人が
Producedに名前がある Yuji.Tさん。
レコード化してくれたのが
Yoshimi Matsumotoさん。

このEPを皮切りに、
当時WADAやDJ SOMAさんが
ディスコでの仕事の合間にプレイしていた
飯倉にあったクラブ『THE BANK』の
1st anniversaryのコンピレーションEPに
KATSUYA SANOさん、DJ SOMAさん、
TANIさん、WADAの4人で参加、
その後1年するかしないかで、
「memoris」という
WADA名義のものをもう一枚、
(これの詳細は忘れたらしい。。。)
と、とんとん拍子に曲を
国内のみの、
しかも限られた狭い市場ですが、
世に出していくことになります。

さて、ここにきて“クラブ”という
言葉が出てきましたが、
実際、いつどこが日本のクラブの原点か、
というのは諸説あるかと思いますので
定かではありませんが、
この頃、80年代後半が
WADAの認識では
クラブ黎明期になるようです。

彼らが1st anniversaryの
コンピレーションに参加した
クラブ『THE BANK』も
その黎明期の店のひとつで
桑原茂一プロデュースの
“廃墟となった銀行”が内装テーマのお店。

当時のクラブは、
今でいう“小箱”のような
規模の小さなお店が殆どで
ディスコのように、
たくさんのお客さんを踊らせ楽しませる、
という感じではなく
もう少し、玄人に向けた、というか
華やかさよりも音楽や音に特化した
マニアックな存在だったようです。
ディスコのように箱専属のDJではなく
様々なDJが思い思いに
実験的(当時は)なプレイをする中で
WADAも本業である『Neo』の
空き時間や休みを利用して
ここでプレイしていました。
ちなみに、WADA以外には
コンピレーションに参加した
DJ SOMAさんやKATSUYA SANOさんの他に
DJ HIROさんやDJ SHIMOYAMAさん等も
プレイしていたそうです。

さきほどもちらりと触れましたが、
基本的に当時のディスコDJは箱の専属で
彼も『Neo』では正社員扱いだったので
本来なら副業は許されないはずなのですが
この頃はクラブとディスコの棲み分けが
ハッキリしていたのと、
音楽の勉強になることなら、と
副業に関しては寛容な環境だったみたいです。
(海外旅行に行くのも、WADAに限らず、
みんなに「行ってらっしゃい!」って
感じだったようだし)

そんな環境下で、彼は
87年頃から『Neo』以外でも
プレイするようになっていました。

『THE BANK』でプレイする前には
DJ SONEさん([第1期③]参照)が
『玉椿』でやっていたハウスイベント
“HOUSENATION”に参加し、
当時まだ新しい音楽だった
ハウスをプレイしたり、
(この頃はまだハウスの認知度が低く
 お客さん受けしなくて心折れたそうですが)
その後、89年頃になって
先ほど話題にした『THE BANK』で
レア・グルーヴから
ハウスなどを幅広くプレイ、
そして、その少し後の90年頃は
DJの大先輩松田さんの誘いで
芝浦『GOLD』の5F「LOVE&SEX」で
チルアウトなプレイを…

ジャンルも場所も様々に
DJの幅を拡げるチャンスに恵まれます。

さらに、この頃の彼の環境の変化は
レコードのリリースやDJだけでは
ありませんでした。

曲の制作やリリースとは
全く関係ないところで、
友人の紹介から
ファッションショーの選曲にも
携わるようになります。

手がけたブランドは
ドメスティックのブランドはもとより
HERMESやDiorやYSLなどの
ハイブランドの国内のショーも。

特に彼が印象深かったと話すのは
某ブランド(忘れたらしい)の
テニスウェアのショーで
自分の曲にテニスのラリー音を入れて
展開したり、
YSLはTANIさんと
オープンリールでテープ編集しながら
Elvis Presleyのメドレーを作ったり
HERMESではSerge Gainsbourgから
フレンチディスコなど
フレンチもの縛りで選曲したり…等々。

「LOVE&SEX」での
ラウンジプレイでもそうですが
人を踊らせることが目的ではないこの仕事には
この数年の引きこもり期の知識と
最近開花し始めた作曲のスキルの両方が
大いに活かされます。

そうそう、この頃 −
88年の国立代々木競技場第一体育館の
Pink Floydのライブにも足を運んで
衝撃を受けています。
彼が行った同じツアーの
ロンドン公演(?)のDVDが
発売されているんですが
今でも思い出してはよく観ています。
彼が観に行ったその日に
彼の勤務中にPink Floydのメンバーが
『Neo』に来店しているそうですが、
彼は好きすぎて話ができなかったみたいです。
(あの人にもそういうトコロあったのね〜)
その時の印象は普通に
酔っ払いのおじさん達だったと。。。

ということで、
これまでの引きこもり時代が
長い助走だったかのように
一気に動き出した彼の人生ですが、
もうさ、色々ありすぎてすっごい複雑!

ちなみに、この頃、音楽とは関係ないけど
一時期ベジタリアンとかも
やってたらしいです。
あと、曲を聴かせて
助言をしてくれた彼女とは別れたり。
もう、文中には組み込めない
トピックもあるので
年表とか作って図解したいくらいだけど
まー、めんどくさいからしません(笑)

ということで、
めんどくさくなってきたところで
今回はこのあたりで…
さてさて、次はどうなることやら。。。
(私もまだあんまり聞いてない
セクションです。)

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