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DJ WADAヒストリー ディスコ編[第2期⑦]

えっと、忙しいアピールも
いい加減ウザいかと思うんですが
どういうわけか、忙しいのです。。。
今月もパズルのように
スケジュールを埋めていく感じなんですが
思いがけないスケジュールの変更で、
あれれれ?? ぽっかり半日ほど空いたので
そのスキを見てサクっと更新。
そういうわけで、思いつき更新なので
文章が雑でも短くても、
大目に見てやってくださいな☆
(でもトピックはわりと濃いめかと。。)

✳︎

自分名義のアナログも出した。
DJの仕事には安定も刺激も、両方ある。
そのうえファッションショーの選曲という
副業もあって生活にはそれなりに
余裕ができた。
そして、結婚もする。

彼の人生は順風満帆かのように見えましたが、
世の中はそんなに甘くはありませんでした。

1991年。WADA 32歳。
日本経済のバブル崩壊にリンクするかのように
彼の幸せな生活も再び崩壊をしはじめます。

崩壊のはじまりは
突然訪れた大切な人物との別れでした。

前の投稿の彼女と別れた後、
1年ほど付き合った女性と結婚。
新婚旅行先はフランス。
出国前日に銀座で母親とお茶をして、
じゃあ帰国してからね、と日本を発って
パリ滞在1日目。
夜中、ホテルの彼宛に
日本から一本の電話が入ります。
電話の内容は元気にじゃあねと別れたはずの
彼の母親の訃報。

そう、
彼の人生に大きな影響を与えた最愛の母を
幸せ真っ只中の新婚旅行中に
突然、亡くすのです。

たった1日の新婚旅行は終了し
現実を受けとめきれないまま帰国。
茫然自失のまま喪服に身を包み
周りに助けられながら
なんとか喪主を務め、母を見送り、
新生活をスタートさせるのですが
最愛の母親を突然に亡くした傷は
そう簡単に癒えるはずもなく。

特に、仕事ばかりの父親とは
共に過ごす時間の少ないまま、
両親の離婚によって疎遠になった彼にとって
ほぼ女手ひとつで彼と妹を育てた母親は
どんなにすれ違いの時間を過ごしても
絶対的存在で、安心できる場所でした。

その安息地を失った彼に
追い討ちをかけるかのように
92年、彼の勤務地『Neo』が
名前を改めて営業していた『ZIPANG』が
とある事件をきっかけに閉店します。
(90年公開の映画、
林海象監督『ZIPANG』で使用したセットを
店内装飾に使用したところから
この名前に変わったそうです)

さらにはバブルの崩壊により
選曲の仕事も徐々になくなり、
彼の仕事は月に1〜2本、
歌舞伎町『MC1000』や
西麻布『Yellow』などの
クラブでの仕事のみになってしまいます。
(この辺りのお仕事については
また次回…書けたら。。。)

最愛の母も、仕事も、
そして男として、人としての
自信さえも失った彼。
それでも生ある以上、
騙し騙し生活して行くしかないのですが
ここまで音楽でしか生きてこなかった彼には
なかなか状況の立て直しは容易ではなく…。
今思い返せば、
当時の奥さんやその家族は
家庭生活を維持し、
彼をサポートすべく
粉骨砕身してくれていたのでしょうが
当時の失意のどん底に居る彼には
十分にその厚意は届かないまま
次第に、彼と家庭の歯車は
上手く合わせることが困難になっていき、
彼は2年間ともに過ごした妻と
その間に生まれた愛娘と離れ、
単身、家を出ることを決意します。

そして、そんな状況の中で、93年12月。
彼を語る上では欠かせないクラブ
『maniac love』が
青山骨董通りに
ひっそりとオープンすることになります。

✳︎

ということで、
次回は『maniac love』オープンにまつわる
あれこれから。
私にとっても思い出の場所です!


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