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day08 縄文意識をインストール。

noteを書き始めて1週間が経過した。
飽きっぽい性格で三日坊主とか余裕のわたしにしては、ひとまず偉いと褒めてやろう。でも続けなくてはならないという義務感は無しでいきたい。

相方さんと1週間振りに会った。
ここ暫く、検定試験の勉強会ばかりでちっともデートらしいこともなかったから、今日は久々のドライブデート。

先週みたいに、彼を『気遣いのないヒト』扱いすることもなく、むしろ誰よりも気遣ってくれる人として受け容れた。

どんな人でも、視点を変えれば見え方は真反対くらいに変わるのだ。
言い換えれば、自分が見たい視点からだけ見ようとしているということ。

彼の愛車で、近くまで迎えに来てくれる。コンビニに寄ってもランチを食べに行っても支払いをしてくれる。
別に今日に限ったことではない。いつもだ。
それなのに、気遣ってもらえないとかふざけんなって話だ。どの口が言ったんだ。


一戸町の縄文公園に行ってきた。
星や天文宇宙も好きだけれど、縄文文化にも興味がある。彼の母上は昔、遺跡の調査をしていたそうだ。そんなわたしは昔(いやつい最近まで)その遺跡の報告書を制作する仕事をしていたのだが。

天気は良いけれど風が冷たい。
先週の仙台とは打って変わって、雪も降ったし既に冬の気候だ。蠍座から射手座に太陽が移動しただけで、こんなに変わるものだろうか。


ときに、縄文時代の人たちが生きていた頃、彼らは縄文人と呼ばれてはいなかった。縄文時代と名付けたのは、もっともっと時代が進んでからのことだ。

当時の人たちからすれば、今を生きる現代人という感覚しかないだろう。いや、そもそも現代という感覚すらあったであろうか。

過去も未来も意識することなく、自然の中で調和しながら、今を生きる。
縄文時代のことはあまり詳しく知らないけれど、江戸なんかより遙かに永く続いたその時代は、そんな縄文意識が創り出していたのだろう。


情報社会と言うけれど、多すぎる情報に呑み込まれて、溺れてしまうのは勘弁だ。そしてそれらを取捨選択するために必要なのが、もしかしたら『縄文意識』なのかもしれない。


今のわたしたちが生きる現代は、100年や1000年後には時代として名前がつけられているのだろうか。そんなことを思いながら、冷たい風に吹かれ公園を散策した。

今を生きる、いや、生き切ること。
縄文時代と呼ばれていた頃はきっと今より寿命は短かった筈だ。
人生100年とか言ってるけれど、わたしは50年で一度締め括って、残りはボーナスステージくらいに考えている。

あと4年、やり残しなく進みたい。
少なくとも今見ている景色よりも、広く大きな世界を見てみたい。
可能性は、常に100%ある。明日死んでしまう可能性だって、同じくらいある。というより1%でも可能性があるというのなら、それは100%と同じなのではなかろうか。


まずは縄文意識をインストールしておこう。
昨日でもなく明日でもない。さっき、でもないし、そのうち、でもない。

今だ。今しか存在しないのだ。
五感を研ぎ澄ませて、今を感じること。
風を、水を、地を、火を。そして太陽を。
目で見て、耳を澄ませ、鼻から香りを吸い込み、身体で触れて、言葉にする。

ひたすら、その繰り返し。
感じて言葉にすることを続けていくよ。

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