見出し画像

東京・大貴族のくらしを覗く「旧前田侯爵邸」

東京23区のなかでも目黒区や世田谷区は高級住宅地のイメージがありますが、その区境近くに"高級"の度を越したような大邸宅が建っています。

「旧前田家本邸」もしくは「旧前田侯爵邸」と呼ばれるその建物は、洋館、和館の2館からなり、それぞれ昭和4,5年(1929,30年)に竣工しました。
どちらも国の重要文化財に指定されています。

洋館は2階部分に侯爵一家が暮らし、
和館はその後迎賓用として建てられたそうです。

現在は目黒区の管理で、敷地全域が「駒場公園」として整備され公開されています。
最寄り駅は京王井の頭線の「駒場東大前」駅か小田急線の「東北沢」駅。

どちらの駅からも徒歩10分ほどで、閑静な住宅街を抜けた先にあります。

さて、前田侯爵邸とはどこの前田さんの邸宅かというと、「旧加賀藩主」の前田家です。
初代・前田利家からはじまり、加賀百万石と言われたあの大大名家の16代当主がこの大邸宅の主"前田利為まえだとしなり"侯爵なのでした。

日本に爵位制度があったのは明治17年(1884年)の華族令の施行から、敗戦後に日本国憲法公布される昭和22年(1947年)までの、約63年間。
前田本家は加賀藩という大藩が母体のため、"公爵"位に次ぐ"侯爵"という高位の貴族(華族)としてその期間を過ごしています。
ちなみに↑の爵位の読み方はどちらも"こうしゃく"です。ややこしい。

この広大な敷地には、侯爵一家のほかにも100人を超す使用人たちが暮らしていたそうです。
たしかにここを維持管理していくには、そのくらいの人数は必要かも。

現在は洋館も和館も庭園も公開されていて、じっくりと見てまわることができます。

洋館の内装。大きな窓からは庭園が見える。
すべての部屋が素敵で豪華。
調度品ひとつひとつも個性があり、美しい。

この洋館の設計を担当したのは、ホテル建築に定評のある高橋貞太郎たかはしていたろう

あのフランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテル建て替えの際に、新本館の設計を担当した建築家です。
当時、ライト館の解体反対運動による大変な批判に晒され、建築家協会を脱退するという事態に陥りながらも、新本館完成までやり通しています。
さすが明治生まれというべきか、意志の強さと信念を感じます。
その新本館が竣工した1970年に高橋は亡くなっています。

この洋館に隣接する形で、和館が建ちます。
渡り廊下で接続されていますが、残念ながら通行はできません。

和館室内から日本庭園を楽しめる。
欄間部の綺麗な螺鈿装飾。たまらんです。
照明は洋灯も多い。

こちらの和館を設計したのは、佐々木岩次郎ささきいわじろう。京都・東本願寺再建や、平安神宮設営に携わった、神社仏閣建築のエキスパートです。
大正6年(1917年)には帝室技芸員ていしつぎげいいんにも選出されています。
昭和22年(1947年)に廃止された同制度ですが"建築"での任命は珍しく、期間中任命を受けた79名のうち、佐々木のほかには明治期に活躍した伊藤平左衛門いとうへいざえもん9世のみです。

庭園広場でくつろぐ人びとの姿も見える。

明治維新以降さまざまな物が洋化されていく流れで、当然建築の分野でも洋風の建物が続々と建てられていくようになり、その最初期には"見様見真似"や"へんてこ"な物も建てられたりしたそうです。

"擬洋風"と呼ばれたその建築群はどれも独特で興味深く、伝統の木造建築の世界観に西洋の石造建築の意匠、解釈が施され、当時の大工棟梁たちの創意工夫が全力投入されている様子が伺えます。
目新しい物好きな日本人のことですから、悩みながらも楽しんでデザインしていたのではないですかね。
どの建物もほんと魅力的で、ひと言で表すと「やばい」です。はい。

この"擬洋風建築"、少ないながらも「旧開智学校」等(長野県・松本に所在)現存するものもあり、"文明開化"の強烈な個性をいまでも味わうことができます。

そんな歴史を持つ西洋建築の輸入の変遷ですが、この「前田侯爵邸」の建てられた昭和初期ともなれば技術的にもデザイン面でも高度に洗練されて、"へんてこ"要素はどこにも見当たりません。
和館・洋館ともに東西の粋を集め、技術的にも芸術的にも、もちろんお値段的にも最高級品と思われます。

こうした戦前の華族や財閥関係者のような富裕層の邸宅では、よく敷地内に和館・洋館を並立させているのが見受けられますが、和館を生活のための住居として、洋館は応接・歓待のための施設として使われることが多いようです。
ところが前田家では逆で、普段は洋館に暮らし、和館は外国からの賓客の応対施設として使用したそうで、そもそも和館は日本文化を紹介する目的で建てたともいわれます。
高い教養と、武官としてロンドン駐在の経験も持つ侯爵ならではの配慮といえるかもしれません。

その侯爵も昭和17年(1942年)に陸軍中将として赴いたボルネオにて命を落とし、本邸は前田家の手を離れ、さらに敗戦後はアメリカ軍に接収されることになります。
昭和32年(1957年)に接収解除されるまでは、米軍極東総司令官リッジウェイの官邸として使われたりしていたようです。

その後、東京都が「駒場公園」として整備し、「旧前田家本邸」も一般公開されることになりました。

「駒場公園」正門と東門。
正門は重要文化財に指定されている。

かつての「貴族階級」の暮らしぶりはとても現代の一般人の感覚では捉えられませんが、そう遠くない時代の話です。
仮に同時代を生きていたとしたら絶対に接点を持てなかったと思うと、いまがどれだけ恵まれているか、と実感しますね。

駒場公園に足を運ぶだけで、一級の美術品を間近に感じて、いつでも誰でも、優美で華麗な過去に想いを馳せる時間を味わうことができます。

丸山直己

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?