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「やられてもやり返さない」を子どもに伝えること

こんにちは!どんどん寒くなる12月…朝目覚めても外は真っ暗な季節がやってきました。今日は子どもたちの間に起きる「もめ事」について。「やられたらやり返す」は果たして"学び"なのか?ということについて書いてみたいと思います。

「やられたらやり返す」は正義なのか?

学校で教育に携わっていると、いろんなことが起きます。「⚪︎⚪︎が先にやってきた」だの「私はそんなつもりでやってない」だの、本当にたくさんのもめ事が起こります。

個人的には「もめごと」は悪いものではなく、異なる誰かと生きていく時には「必ず起こるもの」だと思っています。もちろん、色んなことが起きる中で、内心「またこれか〜」とか「何回これやんのさ」などと思ったりしますが(笑)、子どもたちが集団生活の中で経験するコンフリクトは成長のために必要である場合もあります。

そんな時、時々「やられたからやり返したい」と言う子がいます。例えば、(本人はそんなつもりではなかったけど)遊びでAくんがお見舞いした一発がBくんにとっては結構痛くて、Bくんが「痛かったからやり返したい。やられたのにこっちが何もできないのはフェアじゃない」と言ったりします。

Bくんの気持ちはよーくわかるのですが、「じゃあ、Aくんは一発お返しされても仕方ないよな?」という雰囲気が作り出されない私の働く教育現場。こここで「リベンジ」が推奨されない状況について考えたいと思います。

「リベンジ」は損得勘定から生まれる?

私もどちらかと言うと「リベンジ」という言葉に良い意味は見出さないタイプです。「やられたらやり返す」というドラマが流行したりしましたが、個人的にはあぁいうのを見て心からスカッとするタイプではありません(全てのエピソードは観たんですが←)。どこか「本当にあれで良いんかな〜」が残ります。

それは、「やられたのにやり返せないなんて」と思う心はどこか損得勘定に溢れているように感じるからかもしれません。つまり「50:50であるべき」という考えが多くを占めているということかもしれません。しかし、世界は、社会は、人生は50:50で割り切れないことだらけです。善悪は白黒ではないし、あらゆることが曖昧です。

しかも、やり返した方はすっきりするかもしれませんが、やった方は?意図して相手を傷つけるつもりではなかった場合は?仮に、意図的に傷つけたとしても、相手からのお見舞いを喰らって、本当に「これでフェアです、納得!」と心の底からなるのでしょうか?いやいや、ならんでしょう…と思います。笑 じゃあ、何のためのリベンジ?

そもそも、"その状況をフェアと呼べる状況に持っていくこと"が本当に達成したいことなのでしょうか?

戦争は「やられたからやり返す」から生まれる?

個人的に「やられたからやり返す」の最たるものは戦争だと思っています。大切な人を殺された辛さ、心の痛み、悲しみ…人の命を奪う行為は、人の心を最も傷つける行為の1つだと言っても過言ではありません。

ガザ地区で子どもながらに銃の扱いを身につけ、戦術を学んでいる少年は叫びます。「殺された父親の仇をとる」と。それくらい「誰かを奪われた悲しみ」は人をその道へと突き動かすのでしょう。

一方で、2011年にノルウェーのウトヤ島で起きた銃乱射事件によって捕えられた犯人と、被害者たちの家族は闘い続けています。極刑のない国、ノルウェー。そして、その国の刑務所もまた日本とは大きく異なります。ご興味がある方はぜひ、映画「ウトヤ島、7月22日」をご覧ください。

「憎しみよりも、愛と思いやりをノルウェーは選ぶ」

ある記事に書かれた文章からは、(一部の)ノルウェーの人たちの魂の強さを感じます。もちろん、被害者家族の全てがそのように思っているとは思いません。しかし、

テロ後、若者と民主主義の攻撃だとして、各政党への党員申し込みは急増した。ブレイビクの思惑は外れ、政治活動に積極的な若者たちはさらに増えた。「ブレイビクが否定した今のノルウェーを、私たちは維持する。ノルウェーは変わらない。憎しみの道を辿らず、憎しみには負けない。憎悪や差別感情を拡散させないために、後世に歴史を伝えなければいけない」。この思いを支えにし、ノルウェーでのテロ議論や憎悪や差別との闘いは、これからも続いていく。

連続テロから5年 復讐という選択肢を拒むノルウェー 遺族や生存者が当時の悲惨なSMSを公開

という文章からも伺えるように、私はこれこそ短絡的な選択をしない人たちの中にある、本当の強さだと思うのです。

やり返すよりも、問題の根本を見つめる

「やられて悔しいよね、今やり返しておしまいにしましょう」

私が記憶している限り、私が見てきたオランダの先生たちはそんな発言を一切しません。彼らの中で「やられたらやり返す」をフェアな行為だと定義づける感覚は全くないと言っても過言ではないかもしれません。ちなみに、兄弟を持つ保護者からもそういった発言は聞いたことがありません。

それよりも、指導力のある教員は根本解決に臨みます。まず、どのような状況であったとしても「やめて」と言われた行為を引き続き行うことは、何よりも許されないということ。"NO"は"NO"だと理解しなければいけないということが鉄則です。ここに年齢も性別も関係ありません。

そして、もめ事は起きてしまうということです。思い違いだったり、誤解だったり、意図した攻撃だったり…あらゆるもめ事は「起きてしまう」ことが前提で、誰かをコントロールしたり、自分の思い通りに物事を動かしたりすることは、時に難しいということも伝えます。

そして、起きてしまったもめ事をとやかく言うよりも、お互いの言い分を聞いた後、次同じことが起こらないために何ができるかという前向きな議論をするということです。もちろんそのプランAもまた、今後上手くいかないこともあるかもしれないけれど、私たちは何度だって間違うし、それで良いし、その都度話し合っていけば前に進むという感覚を身につけるように促します。

戦争を起こす種を蒔くよりも、そこで時間をかけること

それは時に時間がかかるし、状況によってはめんどくさいことかもしれません。しかし、私が思うに、戦争とは「めんどくささを放棄した」という結果なのではないでしょうか。

戦争という言葉は大きすぎるかもしれませんが、「こんなことになるとは思わなかった」というのが、大惨事の末に聞こえる言葉だとしたら、その種はきっとめんどくささと引き換えにばら撒かれ、時間をかけて芽吹いてしまったのかもしれません。

そして、その種にはあらゆる価値観がくっつき「やられたらやり返す」という考えのもと、どんどん成長していくのかもしれません。

そして気づいたら、大地はそういった価値観の草花でいっぱいになってしまっているのかもしれません。

人が関わって生きることを考えると、価値観の焦点をその場だけに留めるのではなく、もっと広い視野を持って関わることはとても大切だと感じます。自分自身が損得勘定で納得しようとすることや、子どもの中にある損得勘定を育てることは、一過性の善であって、長期的に見ると歪んでいるとも言えるかもしれません。

「やられたらやり返す、10倍、100倍、1000倍返し!」

という言葉は、インパクトこそありますが、果たしてそれがより良い社会を世界を作っていくのかというところまで想像を広げた時、目の前のもめ事にどのようにアプローチすれば良いかが見えてくるのかもしれない。そんなことを考えています。


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