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HSPドラマ「いちばんすきな花」

Hawai'iの神話研究会の仲間に、勧められたドラマ、「いちばんすきな花」。

そうなったきっかけは、私が、今では既に過去になりつつあるコロナ禍に於いて「文学」を学んだ人達や、今学んでいる人達が、誰一人コロナ禍で自分の「考え」を述べなかったことに私が腹を立てていた、という話題を出したのがきっかけだった。

コロナ禍では、エッセンシャルワーカーと呼ばれる医療従事者や福祉関連の人達ばかりがメディアで取り沙汰され、ここぞと発言していた。

同じ文系である経済学者まで黙り込み、緊急事態宣言が長引けば後に増税地獄が来る事くらい分かっていただろうに、仮に「経済を回せ」と言うだけで、殺人鬼呼ばわりされるのを恐れ、誰も何も言わなかった。
この時期に他の事で目立った経済評論家や学者は居たが、当時も、そして今思い返してもバカバカしい対策に、「バカ」と堂々と言った学者は一人も居なかった。

記憶にあるのはグローバルダイニングの社長が小池都知事を相手に訴えていたことくらいか。

コロナ禍のあの殺伐とした空気の中、文学を学んで、一体何の役に立つのか??と思った文学部の学生や卒業生は多かったのでは無いだろうか?。

そして通常を取り戻しつつある今も、グローバリストのお望み通り、相変わらず理系が花形として扱われている。本来なら、コロナ禍後にいきなり飛び出したLGBT法案に関して、ここでこそ文学者が堰をきって発言するべきタイミングがあったのに。
日本に於けるジェンダー感の歴史は文学の中にヒントはいくらでも在る。

論文や発言は在ったとしても、とにかくメディアが扱わない。それなら個人的にYouTubeで発言するなどする勇気が欲しかった。

さて、文系学問は平和な時しか役に立たないのか?。。。

そんな疑問を持つ事自体、少し平和になった気分になった最近、超神経質で仲間作りが下手な若者達が語り合うドラマ「いちばんすきな花」がスタートした。

と言ってもリアタイムで観れない私はTVer 専門で、途中の話が視聴出来なかったりで飛び飛びなのだが…(つまりあまり詳しくはない。)

このドラマに出て来る主人公達は、小学校〜高校まで、「学校」という社会で上手く人に馴染めず、大人になった今も不器用で居場所が無く感じており、かつて自分が学校という場所でどんな状況が起き、その時自分はどんな気持ちであったかを、文学的にというか、少し理屈っぽいが各自自己分析しながらトラウマを語り出す。

なるほど…  その台本自体が、もしかしたら文学的なのか?

ドラマを見進めて行くと、この4人はHSP傾向があるのが分かる。他人の気持ちが分かりすぎるが為に、自分はどんどん置いてけぼりになっているにもかかわらず、自分を出す事が更にどんどん恐怖になってしまうのだ。他の人と自分は、全く違うことを考えていて、それを表に出すことは、顰蹙を買うだろうと常に先回りして、傷つきやすい自分を守って生きている。

つまり、「体裁のいい自分」を作ることが、彼らの生きる術になっているのだ。

本音を出せば周りには納得されず、反発されて心が傷つく。だから彼らは他人に対して最初から「諦め」て付き合っている。だから誰のことも本気で好きになれないし、誰とも友達になれず大人になった。

実は私も10年程前まではそうだった。

自分の中には、他人にとっての「とんでも!」な内容の思考が常に渦巻いている。だからそれをストレートに出せば周りは一気に引いていく。もし、出すならばオブラートに包んで包んで相手に責められない様言葉を選んで発言しなくてはならない。

思春期に、自分と同じ様な友達は一人だけ存在した。他の人達は皆「良い人」なのだが、私の本音を話した所で話は5%程しか通じて無いので、正直全く楽しく無いのだ。しかし、学校では仲間が居ないと課題を手分けしたり情報の確認をする相手が居ないので、自分にとって大きく不利になるので、つまらない相手とも気の合う振りすることは必須である。学校とはそういうつまらぬ気遣いを学ぶ所だと今でも思っている。大学となるとやっとそれ以外の価値が出て来る。価値のある授業、というのがたまに存在するからだ。
しかしそのたった1人の友達とも、ほんの少しの価値観のズレを感じただけで、「もう会わなくいいや」となってしまうのがHSPの世界である。大変失礼だが、1人の方がまし…と本気で思ってしまうのだ。だから執着も全く無い。

それが、ここ10年程で変わって来たのだ。

それは、既存の組織に自分が入ることは自分には無理なのだと理解し、自分が組織を作ってみたのだ。

すると、その組織は、「いちばんすきな花」の4人の様に、組織の中では自分を殺さないと生きられない人達が私の周りに集まった。勿論、全員がHSPという訳では無い。しかし、大きな組織ではつまらぬ評価に晒されて、敏感過ぎて潰されてしまいそうな人達がわたしの周りに集まったのだ。

ドラマの主人公は、無理をしながらそれでも社会で生きており、そのガス抜きで4人で集まって、この場では本気で人間関係を構築していく。

私たちの場合は、既存の組織で生きなくてもやっていける方法(そこには結婚という手段も含まれるが)を考えて、フリーで働く人も増えている。

しかしその中でも、ギリギリ組織の中でなんとかやって行けてしまう人…というのが1番苦しんでいる様に見える。つまり、ドラマの4人の様な立場だ。

私の場合は、組織に居続けるのは、自分を殺すことになる。自分を殺す…つまり、自分を生きない、イコール、身体は生きていても精神を殺して生きるのは、エア自殺…と呼んでも良い程だが、
その位、苦しくて、とにかく嫌なのだ。

その、誰よりも大きな「嫌」が、私のエネルギー源になり、me ke alohaというサロンの立ち上げとなった。
つまり、ギリギリやって行ける人は、その苦しみもまだまだ中途半端であり、そうすると生みの力も弱まってしまうから、理想というものになかなか近づけ無いのだと思う。

やはり、人間は、人が苦手であっても人と関わること無しに生きることは不可能だ。
まず人と関わらなければ経済社会に参加出来ない。つまり、お金を稼ぐことは出来ない。

人と関わりたく無い、でもお金は必要だ…

という気持ちの人はこの世の中に沢山居るだろうが、こんなにITやAIが発達した世の中でも、それが可能なのは投資の世界位しか思いつかない。

今現在は、やはり人は人と関わらなければ、大多数の人は生きられない仕組みになっている。

主人公の母親が、「やっぱり人に必要なのは社交性よ…」(←うる覚えだが、、)というセリフを言った。

これは、今の敏感な時代に於いてはパワハラ発言になってしまう様な感じすらある。

私自身は、この母親の様なある意味普通の人というのは、論外なので自分の人間関係からは省いているが、だがしかし、ある部分では言い得て妙…というか、鈍感なこの人の発言の中にも認めざるを得ない部分は感じている。

経済活動に於いては、自分を訓練して変えてしまった方が楽な部分もあるからだ。

私自身の超内向的性格は、若い時の組織への参加という訓練によって、社交的に見せるべき場面では見せることが出来る様になった。その方が得だと自分が判断したのだが、しかしその部分は、HSP的に見ると、こんなことでも「魂を売った」と捉えられるのだ。損得で自分を変えている。

がしかし、HSPは神経質故に、あれじゃなきゃイヤ、これじゃなきゃムリ、が人より多く存在し、生活コストが半端無いので、稼ぐ ということも実に重要なのだ。
したがって、自分をいかに快適に保つには、こうした少しの我慢や訓練で得られるものには犠牲を払うのは仕方がない、と常に計算してしまうのだ。

さて、

こんな話を、飲み会で聞かされたいと誰が思うでしょうか?

素敵な異性を目の前に、訳のわからぬHSP話をされたら、普通はドン引きされる。

逆に、こんな話に乗って来る女性は面白い存在だが、これに妙に共感して来る男性は気持ちが悪くて付き合う対象にならないという…

一体何がお望みなんですか?? と、相手を疲れさせてしまうのがHSPである。

だから私は自分の本音を他人に話さない。

「もう、意味わかんない!楽しけりゃそれでいいじゃん!理屈っぽくてなんか話してるとムカつく」

そう言ってくるあなたのことが、私も大嫌いなのだ。

なのに、こんな風にムカつく私に、何か自分の知らないことを知っていると思って近づいて来るのはそちら側の人達。

ザ・普通の人達からしたら、「いちばんすきな花」は全くもって意味不明でしょう。しかし、TVerではかなり上位にいます。今の思春期世代は敏感な人が増えたのでしょうか??。

しかしその敏感さと、生命力という力強さを並べると、逆に「鈍感力」を失ったこの世代には、みなぎる様なエネルギーを感じることも少ない。

一体何が理想なのか??

自分で自分がライ麦畑の中二病だと分かっているが、根本の自分を変えることは不可能なのだ。

こんな性格や体質を持って生まれた自分の使命はかなりピンポイントな人達にしか通用しないだろう。が、そのピンポイントの人達を私は集めることが出来たことは奇跡である。
だから、小さな世界ではあるが、今後も楽しく生きて行けそうだ。


2023.11.22


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