ゆっくり、丁寧に、所作を行うことで、丁寧な私が出来上がる

 

現代人は、忙しく、動き回っている人が多い。 


食事しながら、テレビや スマホを見たり、する人も多いと思う。


すると、いつの間にか、忙しいことが、標準装備の 私が 出来上がる。


時間がぽっかり空くと、逆に落ち着かなかったりする。 


そして、その空白を なんとか、埋めようと動いてしまう。

機械が入れてくれた、コーヒーを機械的に 体に流し込む、作業の 果てに できあがる 私は、

やはり、機械的な 私 になるだろう。


コップ一杯のお水を 飲むという 単純な動作でさえ、 ゆっくり、目覚めて、行えば、いろいろな 気づきがあるものだ。


まず、飲む前に、そのコップのお水に、感謝を捧げてみる。  

声で 唱えてもいいし、

手をかざして エネルギーで 表現してもいい。


前と後では、その水は、味が 確実に変わっている。 感謝を捧げた お水は すでに構成組織が変容して、味もまろやかになっている。

そして、ゆっくり、一口、 そのお水を飲んでみる。

口から、喉を通り、食道を通って、胃に流れていく、その流れを 体感として 感じるだろう。

自分の体の器官を、私たちは 自分のものだ、と思っているが、 それを、生きているうちに、この目で見ることはなく、


私たちは 死を遂げる。


私たちの内臓を見ることができるのは、他人である 外科医だけだ。


私たちは、自分たちで所有していると思っている、全てのことは、実は、所有できないということだ。

ただ、水を飲むことで、その自分の体の中の 器官を 通り抜けていく、体感をもってしてのみ、 自分の中には、食道とい

う、細い管が あるように感じられる。

そして、その先に、広くなっている、器官、胃というものが ありそうだ、ということを 感じさせてもらえる。

このように、自分の心と体に、入っていくものを 注視することは、自分の心と 身体の状態を知ることに とても、役立つと思っている。

自分の食べたいものを 食べているだろうか。


どんな人が作った、どんな素材のものを 食べているだろう。


口に入れる、食べるという行為は、いわば、聖なる自分へ 聖なる食物を捧げる、儀式であるとも言える。

あらゆる国の、文化の中で、祈りの前に、感謝の祈祷がされてから、食べるという行為が おこなわれるのは、共通の本質が 

あるからだと 思われる。

昨日書いたように、自分に入っていく情報の量と質を 選択してくこと、と 自分の体の中に 入っていく、食物を 選択する

ことで、作られていく、人間は、 人間の形をした、機械とは、なり得ないと 思っている。

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