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ある女の魂の解放の物語〜【Opera】東京二期会『ルル』

 東京二期会が18年ぶりに上演したベルク『ルル』。18年前は日生劇場で演出は佐藤信、フリードリヒ・ツェルハ補筆による3幕版の日本初演だった。あの時の衝撃はいまだに忘れられない。ずっと焦がれてきたルルが、生きてそこにいる、という衝撃。演じた天羽明恵と飯田実千代の姿は、今でもありありと思い出すことができる。

 今回演出を手がけたのは現代ドイツのレジーテアターを牽引するひとり、カロリーネ・グルーバー。事前にレクチャーが動画配信され、またプログラムにも彼女の演出意図は詳しく書かれているが、それによるとルルは従来の「男を惑わす運命の女(ファム・ファタール)」ではなく、男たちの欲望の犠牲者である。親がわからず、幼い頃から売春をさせられて生きてきたために、普通の生き方が不可能になってしまった女性。だからルルは、自分自身がなにものであるのか、自分の気持ちがどうであるのかさえわからない(彼女が何度も繰り返す「私にはわからない」という言葉を思い出しておこう)。そのことを示すために、舞台上にはルルに似せたマネキンが幾体も登場する。例えば第2幕では、ゲシュヴィッツ伯爵令嬢、力業師、シゴルヒ、ギムナジウムの学生、従僕がそれぞれ小部屋の中で、自らが欲するルル(ネクタイを締めた男装、エロティックなダンサー風、全裸の女教師、ボンデージの女王様など)の姿をしたマネキンに抱きついたり愛撫したりしている。さらに舞台上には最初からずっと、登場時のルルと同じ白いシュミーズを身につけたダンサー(中村蓉)がいる。彼女は、ルル自身にもわからないルルの魂の化身だ。グルーバーはいう。

ルルの内面はそこに絵を描くことができるくらい真っ白なキャンバスのようです。彼女の周りにいる人々は、自分が彼女に求めていることをそこに投影しているだけなんですね。(プログラムより)

 従来、アルヴァはルルを心から愛しているように描かれることが多かったが、上述した第2幕の小部屋にはアルヴァもいる。他の人々がルルに似せたマネキンを置いているのに対して、アルヴァの部屋にあるのは青い服を着て幼児を抱える聖母マリア像だ。これはつまり、アルヴァがルルに「母なるもの」を投影していることを示している。第2幕で、刑務所から脱走してきたルルを迎えたアルヴァは、ルルに青いドレスを着せ冠を被せる。自分を無条件に愛し慈しんでくれる存在としての聖母。それはアルヴァの「欲望」に他ならない。彼とてルルを「本当に」愛しているのではない、という演出家の主張がそこには込められている。ちなみに、命をかけてルルを刑務所から助け出したゲシュヴィッツ伯爵令嬢もにも同じことがいえる(2幕で彼女は男装姿のルルのマネキンをたいへんエロティックに愛撫している)。

 徹頭徹尾、「他者の欲望の道具」であるルル。性のアイデンティティも、善悪の基準も、夢も、希望も、欲望さえ持たない。だが、人間である以上彼女にも魂がある。終始舞台上でうずくまり、言葉を持たないアダルト・チルドレンのようなダンサーの姿が、ルルの傷つけられ奥底に押し込められた魂を表現する。ヴェーデキントの戯曲に基づいてベルクが書いた台本では、第3幕でルルはロンドンで娼婦に身を落とし、切り裂きジャックに殺されてしまうという結末を迎えるのだが、今回グルーバーは、2幕版での上演形態をとった。つまり、刑務所からルルが出てきたところで物語は終わる。その代わり、オペラ初演に先立って演奏された「ルル組曲」から「変奏曲」と「アダージョ」がオーケストラによって演奏された(これは2幕版初演時からの慣例によっている)。この場面で、それまで小さく震えていたダンサー=ルルの魂が驚くべき変容を遂げる。立ち上がり、大きく身体を動かして舞台上を踊り回る。そして最後は歌手=現実に生きているルルにしっかりと寄り添うのだ。

 ルルは死なない。ルルは魂を取り戻す。つまり女は、他者の欲望の道具であることを辞め、自らの足で立ち上がり一歩を踏み出す。なるほどこれは、2幕版でなければ描けなかったドラマである。「だがオリジナルは違う。ルルは切り裂きジャックによる殺害という、まさに男の欲望の犠牲になる結末を迎えるではないか」という反論はあるかもしれない。もう一度、グルーバーの言葉を引く。

ただし、この作品はヴェーデキントという男性により、100年以上前に書かれたものです。そして、やはり男性のアルバン・ベルクが男性目線で作曲をし、オペラにした作品です。そこから90年が経った今、我々はまったく違う視点でこの作品を見なければいけません。(プログラムより)

 本作は、現代の視点からの作品解釈という「レジーテアター」の真骨頂であるといっていい。確かに、ヴェーデキントやベルクが生きた世紀転換期における問題意識と、21世紀における問題設定が同じである必要はないのだ。もちろん、オリジナルに忠実な演出を否定するわけではない。だが、今、ここに生きている私たち自身の問題としてオペラをとらえる、という点において、特にジェンダーギャップが世界的に見ても著しく大きく、いまだ女性の地位が不当に貶められている現代の日本でこのプロダクションを上演したことは、非常に大きな意義があったと考える。

 演奏について。私は2日目組のゲネプロと初日組の本公演を鑑賞した(2日目組はゲネプロなので音楽的な評価は難しいことを断っておく)。初日組ではタイトルロールの森谷真理が出色。技術的な安定感に加え、表現力の奥行きがすごい。ちなみに森谷のルルはより「ピュアさ」「無垢さ」を押し出した感じで、ちょっと少女のようなイメージ。それに対して2日目組・冨平安希子はより大人の女性で、自ら置かれた境遇に苦悩している姿が印象的だった。アルヴァは山本耕平が「繊細で純情だけれどマザコンの若者」をうまく演じており、またドイツ語のディクションも確かだった。ドイツ語といえば、急遽代役で歌うことになったシェーン博士の加耒徹がなんといっても素晴らしい歌唱。聞くところによると1ヶ月で舞台に立ったとか。その熱演に拍手を贈りたい。ところで、第1幕で登場する画家はトランスジェンダーとして描かれていたと思うのだが(ルルに促されてドレスを身につける時のなんともいえない表情!)、いつも煮え切らなさにイライラさせられる画家のキャラクターのこの読み替えには膝を打った。高野二郎、大川信之ともに好演だった。

 マキシム・パスカルの指揮はテンポよくキビキビとした音楽運びで、この難曲がそうとは感じられないくらいにスッと耳に入ってきた。今回、ピットが狭かったために打楽器の多くが舞台上手に配置されていたのだが、多種多様の打楽器の量に驚かされた(これでも削減しているそう)。その打楽器も含めた東京フィルハーモニー交響楽団は、パスカルの指揮によく応えてベルクの抒情性を見事に表現していた。

2021年8月31日、新宿文化センター大ホール。

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