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【Concert】藤木大地カウンターテナー・リサイタル“愛のよろこびは”

 今年の10月にワーナーミュージックから初のメジャー・デビュー・アルバムをリリースした藤木大地。そのアルバム・リリースを記念したリサイタルが紀尾井ホールで開かれた。アルバムの収録曲を中心にした22曲が披露されたが、そこはプログラミングには常に入念な藤木のこと、単なる「リリース記念」にとどまらない、いや、むしろ積極的に「アルバムのその先」を描き出そうとする演奏会となった。

 22曲の中には、要所に6曲の《アヴェ・マリア》が置かれている。シューベルト、バッハ/グノー、サン=サーンス、カッチーニ、ロレンツ、そして加藤昌則(タイトルは《サンクタ・マリア》だが)。前半はその間にシューマンのリートやプーランク、トスティなどが入るいわば「ヨーロッパの芸術歌曲パート」。休憩を挟んで後半、バーンスタインの《シンプル・ソング》で始まると、立て続けにマーラーの交響曲第2番から《原光》、サン=サーンス《リュートを弾くオルフェウス》の3曲が歌われ、ここが全体の中の峰に当たる部分。続いて木下牧子と加藤昌則という日本人作曲家の作品へと続く。加藤の《もしも歌がなかったら》(宮本益光作詞)は、いわば藤木の歌い手としての信条告白ともいえる曲。そして、リヒャルト・シュトラウスの《明日!》(この曲の松本和将のピアノの凄さは空前絶後)をはさんで最後にモーツァルト《アヴェ・ベルム・コルプス》で幕を閉じる。なんという計算しつくされた構成だろう!つまり全体は、藤木大地のもつ声の美しさ、技術の高さ、表現力の確かさを存分に示しつつ、《アヴェ・マリア》という天に祈る音楽を軸にすることで(そしてクライマックスに置かれた加藤とモーツァルト作品によって)「歌い手=音楽へ奉仕する者」という自身のレゾンデートルを示した、と読めるのである。

 アルバムがリリースされた時に行ったインタビューの中で、藤木は生で自分の歌声を届けることのできる演奏会の重要性を強調していた。その言葉通り、この日のリサイタルには、「藤木大地の今、ここ」がぎっしりと詰まっていたと思う。例えば、6曲の《アヴェ・マリア》は、まるでオペラのように、その「うた」を歌っているキャラクターや歌われているシチュエーションが立ち上ってくるような歌い方で、よく知っているはずの曲がまったく違う「かお」にみえてくる(もちろんそれは各作曲家の音楽様式をきちんと把握した上で行われた表現なのはいうまでもない)。特にシューベルトでそれが顕著だったことは特筆すべきことではないだろうか。また、後半の1曲目のバーンスタイン《シンプル・ソング》で、明らかに藤木の声の「いろ」が変わったのにもハッとさせられた。この曲が含まれている『ミサ』は、ジャズやロックのスタイルも内包した非常にバーンスタインらしい複雑な音楽だが、たった1曲を歌っているのにその背後に『ミサ』の全曲が感じられるようで、そのために声の奥行きや幅を広げてきたようにきこえたのだ。ここからの3曲は、やはり芸術音楽の演奏家としての藤木大地の正統性を見事に表していたと思う。

 だが、単なるひとりの聴き手、いや、ひとりの人間として心が震えるような時間は、そのあとの日本人作曲家の作品によってもたらされた。過ちを繰り返し、大切なものを失いながらなお生きていく「人」という存在。生きていくということは、永遠に失われてしまった何かを求め続ける旅だ。その「永遠に失われてしまった何か」を音楽が描き出す時、逆説的に世界が光に溢れていることに気づく。だからこそ、「もしも歌がなかったら」生きてはこられなかったのだし、これからも生きてはいかれない。そんな音楽に出会えることはそう多くはないが、この日の藤木大地が歌う日本語の歌はまさしくそのような音楽だった。

 もちろん、録音は繰り返し音楽を聴くことができる点で便利だし、今ではネットで無料で音楽を手に入れることも可能だ。だが、人が全身で感じるような音楽体験は生演奏でなければということを改めて感じさせてくれた藤木大地は、やはり天性のステージ・パフォーマーなのだと思う。

2018年12月18日、紀尾井ホール。

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