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【Opera】東京二期会『ばらの騎士』

事前の記者会見の席上で、私は演出家のリチャード・ジョーンズに、『ばらの騎士』という作品に感じる悲劇、すなわち女性が老いていくことへの思いや時の流れのうつろいへの思い、についてどう描くのか、と質問をした。彼の答えはこうだ。

「私自身は、このオペラはセンチメンタルな作品ではないと思っています。元帥夫人は30代前半、つまり年老いた女性、ではなく、これから年老いていくことを予感している女性です。そんな彼女はオクタヴィアンと別れたからといって、自分の愛の生活を捨てるつもりはない。つまり彼女は、今後も男性を愛し続けいくのです。」

その言葉通り、ジョーンズが作り上げたのは「コメディ」としての『ばらの騎士』だった。登場人物は徹底的に戯画化されることによって作品から「センチメンタル」が排除される仕掛けだ。この戯画化によって誰よりもキャラクターを塗り替えられたのが元帥夫人であることに異論はないだろう。

第1幕の有名な幕開きで、元帥夫人は全裸でシャワーを浴びている。その後彼女は、ガウンの裾をたくし上げてオクタヴィアンに下半身を見せつけたり、乳房に見立てたリンゴを2人でかじったり、と性的な戯れを繰り広げていく。彼女は、これまでに描かれ続けてきた「気品のあるマルシャリン」ではなく、昼下がりの情事に興じるありふれた有閑マダムでしかないというように。

              オクタヴィアン:小林由佳/元帥夫人:林正子

一方のオクタヴィアンは、従来であれば金髪か銀髪であることが多いが、ご覧のように黒いロングヘアで、まるで元帥夫人と双子と見まごうばかりの姿をしている。結果としてズボン役であるところのオクタヴィアンが「本当は女」であることがあらわにされる。しかも、この後彼は「男としての正装」をする前に「女装(小間使いの服装)」するので、このオクタヴィアンからもまた「戯画化された女性」という印象を受ける。さらに、身支度を整えた元帥夫人が身につけているのは、丈の短いくるぶしまでしかないドレス。オリジナルの設定である18世紀であれば、それは踊り子の身につける丈だ。綺麗だけれどそれはどこか「お人形さん」を思わせるヴィジュアルではないだろうか。

                           元帥夫人:林正子

「お人形さん」といえば、ゾフィーはもっとはっきりとそのように描かれる。第2幕でゾフィーはメガネをかけて登場するが、クチュリエールがそれを外して折ったところで音楽が始まる。召使いたちに抱えられてドレスをまとわされ、ハイヒールをはかされる。まさに世間のことを何も知らない箱入り娘らしく。その後、婚約者であるオックス男爵に「まるで馬を見るかのように」品定めされるシーンでは、テーブルの上にあげられて周りに座る男たちに値踏みされる。

              オックス男爵:妻屋秀和/ゾフィー:幸田浩子

この後ゾフィーはオクタヴィアンに恋して、「何も知らない箱入り娘」から「一人前の女性」に成長する…成長?バカな。第3幕で彼女ははっきりと歌っている、「私のように弱い女はあなたの方へ倒れてしまう」。父親という男の支配から脱したゾフィーがやってきたのは、オクタヴィアンという別の男に支配される人生。愛という甘い衣でコーティングされていても、彼女が十数年のちに元帥夫人と同じ境遇に陥らないと誰が言えよう。いや、オペラはそのことをはっきりと宣言している。同じく第3幕の元帥夫人、オクタヴィアン、ゾフィーの三重唱で、元帥夫人はゾフィーと幸せになろうとしているオクタヴィアンのことを「結局男たちが幸福であると考えるような形で」と言っているのだ。オクタヴィアンの未来はつまりは元帥である。

この舞台では、女性は性的存在であることから逃れることはできない(舞台には黙役でフロイトが登場していた)。男によって人生を左右される存在。男の操り人形。箱型の模型のようなセットはドールハウスを思わせるし、女性たちの衣装はお人形のように可愛らしい。ジョーンズが描きたかったのは、男と女のジェンダー格差と、それが支配する社会の構造だったのだろうか。

私が『ばらの騎士』というオペラを観るときにいつも感じるのは、年を重ねていくことで失われていくものへの尽きない憧憬と、それを諦めざるを得ない人生というものの切なさである。ジョーンズ演出はあえてそうしたものを排した「物語」をつくりあげた。しかし、である。

                           元帥夫人:林正子

第3幕の三重唱、オクタヴィアンが「マリー・テレーズ」と呼びかけ、元帥夫人が「私は正しいやり方で彼を愛すると誓った」とつぶやき始めたとき、私の心をとらえたのは、年を重ねていく女性のやるせない思い、抑えても抑えても滲み出てしまう切なさ、だった。なぜなら、どれほどポップにカラフルに戯画化しようとも、音楽が、そのように響いてくるからだ。

元帥夫人はなぜ若い男性との恋愛に興じているのか、危険な恋愛遊戯を続けなければならない(その点では私も演出家と同じく、彼女はこの先もまた別の恋人を作ると思う)のはなぜなのか。そうしなければ生きることはあまりにも虚しく、辛いからだ。色と輝きを失った人生を黙ってやり過ごすには、残された時間はあまりにも長いからだ。生きていくことに絶望しなくて済むように、ほんの少し心踊る「何か」を求めずにはいられない。その心情を理解できる女性は少なくないはずだ。元帥夫人は私であり、貴女である。

しかし同時に私たちは知っている。それは長くは続かないことを。そして結局、虚しさは完璧に消え去ることはないことを。だからこそ切ない。その切なさこそが、リヒャルト・シュトラウスとホフマンスタールが描こうとしたものだ。元帥夫人のつぶやきに重なって歌われるオクタヴィアンとゾフィーの歌詞には、若さゆえの惑いや揺らぎが表現されているが、この残酷なコントラストこそが、人生の真実を私たちに感じさせるのだ。

緻密な計算の上に構築された演出の効果は抜群だったし、それは大変質の高い仕事だったと思う。しかし、観終わったあとでやはりこのオペラは音楽が語るものがすべてなのだ、と強く感じさせられた。おそらくそれは、すべての出演者が奮闘したからだと思うが、特に指揮のセバスティアン・ヴァイグレの手腕は見事としか言いようがない。読売日本交響楽団から「ウィーン風」のふくよかな響きが聴こえてきた時には鳥肌がたった。

二期会歌手陣の中ではやはり林正子の元帥夫人のレベルの高さに舌を巻いた。彼女の歌唱あってこそ、元帥夫人の「女性の心」が伝わってきたのだと思う。ゾフィーの幸田浩子は、ただ可愛いだけではない、ゾフィーもまた男性社会の中で翻弄され生きていかなければならない存在なのだということを見事に歌によって表現していた。この2人のリヒャルト・シュトラウスのスペシャリストに囲まれてオクタヴィアンを演じた小林由佳の熱演も記憶に残る。もともと持っている声質がズボン役にあっているのだと思うが、「大人への一歩を踏み出した青年」そのものの凛々しさと激情が感じられた。


写真:伊藤竜太写真事務所

2017年7月29日/30日、東京文化会館大ホール


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