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【Concert】望月哲也・宮本益光ジョイントリサイタル「近代歌曲の肖像」

 共に東京二期会に所属し、現在の日本のオペラ界を支える望月哲也と宮本益光のふたりが「近代歌曲」を歌うという。舞台の上から華やかに私たちを魅了する「オペラ歌手」のイメージが強いふたりだが、もちろん歌曲にも才能を発揮している。テノールの望月は、「シューベルト三大歌曲演奏会」(Hakuju Hall)をはじめドイツ・リートに取り組んでいるし、バリトンの宮本が自ら作詩を手がけた歌曲のリサイタルなどはいつも早々にソールドアウトしてしまう。だが、そんなふたりをしても「近代歌曲」をまとめて歌うというのはかなりチャレンジングな企画だったのではないか。

 そもそも、「近代歌曲」というジャンルを厳密に定義するのは困難だ。「近代」に生まれた「歌曲」を総称しているのはわかるが、声楽史において「近代」とは具体的にいつのことだろうか。一般的にはトスティの作品などが「イタリア近代歌曲」と呼ばれているので、とりあえずは19世紀後半から20世紀初頭にかけて、と考えられる。宮本と望月は、そこから繋がるレスピーギとチマーラをまずは中心に据えた。この2作曲家が自らの歌曲を「Lirica」と呼び、同時代のドイツの「Lied」、フランスの「mèlodie」が表している内容とスタイルに対応するような歌曲を目指していたと考えらえるからだ、という。かくして、このリサイタルは、レスピーギとチマローザ、ふたりのイタリア人の作品と同時代のフランス、ドイツ、そして日本の作品を取り上げ、「近代歌曲」なるジャンルを俯瞰的に示そうとするものになった。

 これは、企画としては非常に刺激的だが、実際に行おうとすると高いハードルがあることは容易に想像がつく。何よりもまず、イタリア語、フランス語、ドイツ語、日本語、それぞれの言語に精通、というか、「それぞれの言語で歌う」ことに長けていなければ実現不可能だからだ。ひとつ例を挙げるとすれば日本語歌曲である。日本人なら日本語歌曲を歌うのは他の言語よりも楽だろう、というのは浅はかな考えで、近代(明治以降)に日本で生み出された「日本歌曲」はヨーロッパの音楽語法で書かれているために、しばしば日本語のディクションとメロディとの間に齟齬が生じており、またヨーロッパ音楽の基本的な歌唱方法であるベルカントで歌うと「何を言っているかわからない」状態に陥りがちだ。それゆえに、「日本歌曲」は日本人にとって大変難しい曲、という本末転倒な状況が起きる。

 よく知られているように宮本益光はその「日本語の歌唱法」をテーマに博士号を獲得している、いわばその道のプロである(私が聴いた限り、彼の「日本語の歌唱」が上述のような「何を言っているのかわからな」かったことは一度もない)。今回の演奏会では宮本は清水脩作曲の「サーカス」を歌ったが、中原中也の独特のオノマトペ(”ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん”)が繰り返されるこの詩を「歌曲」として表現することの難しさは並大抵ではなかっただろう。言葉のきこえ方、描かれている内容の表現、そして音楽としての完成度、どれをとっても宮本益光はほぼ完璧だった。

 一方の望月哲也は、ウィーン国立音楽大学で学び、これまでに特にモーツァルトのオペラで実力を発揮してきていることからもわかる通り、彼のドイツ語歌唱は非常に正統的だ。演奏会の最後に彼はリヒャルト・シュトラウスの《4つの歌曲》作品27を歌ったが、ドイツ語のディクションの確かさは他に類を見ない。常に声の柔らかさを保ちつつ、緩急自在に表現をコントロールするテクニックをもち、その上で、リートをリートたらしめている芸術性の高さは特筆すべきレベルに到達している。今、日本人歌手でこれほどリートを歌えるテノールがどれほどいるだろうか。

 さて、リサイタル全体の意図、すなわち「近代歌曲なるジャンルを俯瞰的に示す」という意図は、まず一定の成果をあげたといっていいだろう。チマーラとレスピーギの作品がまるでシャンソン・ポピュレールのようにきこえたのは、フランスからの影響があるからだろうし、その上でイタリア人らしい外向きの抒情がはっきりと刻印されている。次に披露されたデュパルクとラヴェルの作品の方が「シャンソン風」の要素がずっと後退しているのも面白い。全体の中で個人的にはもっとも馴染みがあったのがデュパルクとラヴェル作品だったのだが、こうして「近代歌曲」という文脈の中においてみると、単独で聴いている時に薄ぼんやりと感じていた「フランス的なるもの」は実はそれほど色濃くはなく、むしろ同時代の世紀末芸術に共通する色彩感や官能性の方がずっと強く感じられたのは収穫だった。清水脩と橋本國彦ふたりの日本人作曲家の作品は、明らかに同時代のドイツ音楽の影響が色濃い。マーラーとリヒャルト・シュトラウスがそこに続くことでより一層はっきりとそれがわかる仕組みなのもよかった。

 こうした企画は、今の「声楽ファン」には響かないのか、客席にやや空席が目立ったのは非常に残念。商業的にはどうかはわからないが、個人的にはこうした企画はぜひ続けていってもらいたいと思う。個別の作品を繰り返し聴く人は多くても、「歌曲」そのもののあり方や相互関係について、私たちはそれほど熟知しているわけではない。その世界を当代きっての歌い手が解きほぐしてくれるのだから、「歌好き」としてはこんなに嬉しいことはない。

2018年10月7日、トッパンホール。

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