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【Opera】東京二期会『メリー・ウィドー』

 初めて日生劇場に足を踏み入れたのはいつのことだろう。いちばん古い記憶は、母に連れられて観たミュージカル『ふたりのロッテ』。調べてみると1971年に「ニッセイ名作劇場」で上演されているので、この時かもしれない。普段とは違うよそゆきの服を着て、赤い絨毯の敷かれた階段を登っていったときのドキドキは、今でもはっきりと思い出すことができる。その後、いったいどれくらいのミュージカルやオペラをここで観たのか、数え切れないほどだが、私の中で「日生劇場」とは音楽と芝居、つまり「音楽劇」の場として確固たる位置を占め続けている。

 さてレハールのオペレッタ『メリー・ウィドー』の音楽もまた、特別なものである。「マキシムの歌」「ヴィリアの歌」「女、女、女のマーチ」「グリゼットの歌」、そしてあの極上のワインのような二重唱「唇は黙しても」……すべての曲がキラキラと輝き、せつなく甘い思いが心に湧き上がってくる。世に「名曲」と呼ばれる曲は数多くあるが、「音楽がなければ生きてはいかれない」「音楽があるから生きていける」と思わせてくれる曲というのはそんなに多くはない。『メリー・ウィドー』は紛れもなくそうした音楽のひとつである。「音楽劇の殿堂」たる日生劇場で『メリー・ウィドー』を観る。それは、本当に特別な、一生を通じて大切にしたい宝物のような体験なのだ。

 東京二期会はこれまでに『メリー・ウィドー』を9回上演してきている。いわばこの作品の日本におけるエキスパートといっていい。そして今回、演出に俳優座所属の眞鍋卓嗣を迎えて、10回目の新制作を行った。誤解を恐れずにいうならこれはとても「現代的」な舞台だ。物語はパリにある架空の王国ポンテヴェドロの大使館という設定だが、眞鍋が「遠い未来か。はたまた、現代の私たちが住む世界によく似た並行世界か」と綴っているように、装置や衣裳からは「今の」東京が舞台であるように感じられる。さらによく見れば、天井の切り方や階段の傾斜などに工夫が凝らされ、シャープで「現代的」なヴィジュアルが意図されたものだとわかる。歌手たちの演技も、従来日本のオペレッタにありがちだった大時代的な身振りは控えられ、ごく自然なものが目指されている。そう、この舞台は、東京のどこかの街で起きているような、ごくごく「普通」の人の営みの一場面であるかのような印象を与えるという意味で「現代的」なのである。

 そしてこの「普通さ」、「現代的」なところが逆説的にレハールの音楽を輝かせることに貢献している。昼間はきちんと働くが、夜には街に繰り出して女の子とイチャイチャしたいというダニロの「普通さ」。出自をバカにされたことに怒って愛のない結婚をした結果未亡人になり満たされない思いを抱いているハンナの「今っぽさ」。国のために躍起になっているツェータ男爵はさしずめ会社に忠実な管理職というところか。彼らが歌う曲が「物語の中のキレイな歌」ではなく今を生きる私たち自身の歌に聴こえたとき、レハールの音楽の本当の価値がストンと心に落ちてきた。この音楽があることを感謝したい気持ちにかられ、涙がこぼれる。

 私は初日組のゲネラルプローベと、2日目組のプレビュー公演の2回を鑑賞したのだが、ふたりのダニロのキャラクターの違いが際立っていた。与那城敬のダニロは基本的に「いい人」で、マキシムに入り浸ったりしているものの、素直でピュアな性格はどんな環境に身を置こうとも変わらない好青年。対して宮本益光のダニロは、ハンナとの手ひどい別れが残した心の傷から未だに立ち直れず、やや「堕ちている」感じ。その堕落が男の色気を醸し出している。どちらのダニロがいいかは好みの問題だろうが、いずれ劣らぬ「いい男」だったことに反論はないと思う。宮本、与那城とも日本語のディクションが素晴らしく、セリフと歌との滑らかな繋がりなど技術的な高さも際立っていた。

 ハンナはベテラン腰越満美と初役の嘉目真木子。ハンナが持ち役といっていい腰越が余裕さえ感じさせる出来ばえなのは当然として、今回は嘉目のパフォーマンスに目と耳を奪われた。声の伸びも素晴らしく、また2幕ラスト「二人は気ままに、パリってそうでしょ?」の勝利を確信した演技など、愛を勝ち取るためにエネルギーを傾ける女性の心の動きが手に取るように感じられた。嘉目はこの役で何かひとつ大きな山を越えた感じがする。次に演じる役に注目したい。

 眞鍋演出で唯一疑問符がついたのが、ヴァランシエンヌの扱い。「現代性」を押し出したためだと思うが、悩み多い面がクローズアップされすぎていたのが納得できなかった。そもそもヴァランシエンヌはグリゼット出身で大使夫人になった女性で、相当「ちゃっかりした」性格の持ち主。カミーユとの不倫の恋も引くような、引きたくないような、ダメダメと思いつつよろめいてしまう一種の「軽薄さ」が魅力のはず。そうでなければ、第3幕でキャバレーの踊り子の衣裳を身につけて歌い踊ったりするはずがない。やはりヴァランシエンヌには、お茶目で軽くてコケティッシュでチャーミングな女の子であってほしい。

 若手指揮者随一の注目株である沖澤のどかは、全体をうまくまとめ上げて、まずは一定水準以上の成果を上げた。今回、ソーシャル・ディスタンスを保つために合唱は舞台下の奈落に配置。そのため、合唱とオーケストラのバランスが悪く歌詞が聴き取りにくい場面もあったが、これはある意味仕方ないことだろう。沖澤にはぜひ、今後も様々な舞台経験を積み、レハールの纏うウィーンの香りやエレガンスを表現できるような指揮者になってほしいと思う。

2020年11月24日(GP)/25日(プレビュー公演)、日生劇場。

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