サンキューの日に寄せて

 3月9日が何の日か、ご存じだろうか。
 息子が保育園で聞いてきた話によれば、3月9日は3と9で、サンキューの日だそうだ。
 「ありがとう」という言葉は、多分数ある日本語の中でも1位、2位を争うくらい良い言葉だと思う。今回はそんな「ありがとう」にまつわるエピソードを、サンキューの日に寄せて紹介したい。3月9日はもう終わっちゃったけど、まあ少しくらい良いでしょ。

 数年前、足を痛めて松葉杖で生活していたことがある。
 松葉杖を使ったことがある人ならお分かりいただけると思うが、あれを使って歩くのは結構大変だ。怪我をした方の足に負担をかけないよう、代わりに松葉杖を使って体を支えて歩くのだが、松葉杖で前に進むには、両腕に相当の力をかけなくてはならず、それまで「歩く」という行為をなんてことない感じでこなしていた自分の足に対して、リスペクトの念を抱かざるを得ない。

 それはそれとして、松葉杖で街を歩き、電車に乗ると、人々の優しさに改めて気付くことができる。
 狭い歩道では向こうから来る人が立ち止まって道を譲ってくれるし、電車では席を譲られる。僕はその都度、軽く会釈をしたり、「ありがとうございます。」と礼を言ったりする。でもそこには、感謝の念ももちろんあるけれど、なんとなく、自分の不注意で怪我をしたのに何だか申し訳ない、という気持ちの方が多く含まれていたような気がする。その頃、僕は、多くの人の優しさに接しながらも、どこか卑屈で、後ろめたさを抱えて生活していたような気がする。

 そんなある日、職場から松葉杖を突きながら、一人トボトボと帰宅していたときのことだ。
 ふと気付くと、小学校低学年くらいの、ランドセルを背負った女の子が、松葉杖を興味深そうに見ながら僕の隣を歩いていた。彼女は僕と目が合うと、心配そうに「大丈夫ですか?」と言った。
 僕はその時、ぼんやりと考え事をしながら歩いていたので、彼女の存在と、その言葉にやや不意を突かれた感じになった。でも、彼女が興味本位ではなく、僕のことを慮ってその言葉を発したのだ、と言うことは、その表情と、言葉のニュアンスで分かった。
 だから、「うん、大丈夫。」と僕は笑顔で答えた。そして、「ありがとう。」という言葉も付け加えた。それを聞いた彼女はにこっと笑い、僕に手を振ると、走り去って行った。

 僕はその時、彼女に救われたような気分になった。彼女の純粋な心配に対して、僕が言った「ありがとう」の言葉は、申し訳なさや、卑屈さが伴わない、純粋な感謝の言葉だったからだ。実に久しぶりに、そういう「ありがとう」を言えたことに、僕は自分が救われたように感じた。彼女のおかげで、その日はずっと幸せな気分で家路につくことができた。芥川龍之介の短編小説に『蜜柑』と言う素晴らしい作品があるけれど、その主人公に通じる心持ちだった。
 
 「ありがとう」は、言われた人だけでなく、言った人も良い気持ちになる素敵な言葉だ。僕はこれからも、言うべき時にはちゃんと「ありがとう」を言っていきたい。相手のためにも、自分のためにも。

 

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