『プラダを着た悪魔』 感想
私の感想はあらすじを勢いよく無視し、アンディとミランダの関係性も、はたまたそれが誰であるかも書かずに冒頭30分から始まる。
悪魔に無茶振りをされたアンディ。
悪天候のせいで飛行機は1便も飛ばず、どう頑張っても移動手段を確保できない。
自分は精一杯やったこと、他に打つ手がなかったことを主張するが全く認めてもらえず、アンディは働く意味を見失う(見失うのはこれが初めてではない)。
努力をしても報われない。褒めてもらえない。もっと私を認めてほしい…。
ここで相談相手のハゲ紳士は言う。
「それは私の問題かな? アンディ、君は努力していない。愚痴を並べてるだけだ。私にどうしろと?慰めてほしいのか?」
深い。頭に毛はないが、言葉には重みがある。
何が深いか?ポイント2つある。
①「それは私の問題かな?」
これはオーストリア人心理学者アルフレッド・アドラーが提唱する「課題の分離」という考え方そのものだ。
ハゲメガネは愚痴をこぼすアンディに対して、それが誰の問題であり、誰の責任であるのかを冷静に判断している。
愚痴を並べたところで問題は何も解決せず、ただ不平不満が募るばかりで未来は一向に変わらない。
私は生来愚痴を全く吐かない人間だが、何か辛いことや苦しいことがあったときは一度冷静になり、現状に対して文句を言うのではなく、「これからどうしていくか」を大事にしていきたいと思った(いきなり自分の感想を入れる)。
ここの場面でアンディはハゲ上司の説教?の後にパッと顔を明るくし、地味だった服装をきらびやかな物に変える勇気を持つ。
そのシーン以降のアンディは一皮剥けている。
ガツガツいく姿勢はとても大事だ。
②「君は努力していない」
お金を貰って仕事をしている以上、成果を出さなければならない。
そして成果を出すためには努力をしなければならない。しかし、では例え成果が全く出なかったとしたとき、その努力は褒められるものなのか?
答えは「NO」だ。
努力とは成果を出すためにある。
努力とは「正しい方向」と「正しい量」が必要となる。
例え誰よりも早く42,195kmを完走したとしても正規のルートを走っていなければ失格であり、1日10時間勉強しても志望校に合格しなければ努力していないのと一緒だ。
学生のうちは「それでもよく頑張った」と褒めてくれる大人がいるかもしれないが、社会はそう甘くはない。
1日に10時間もかけられる仕事などなければ、1日10時間やってやっと成果が出るようなことは1時間でやらなければならない。さらに、そのような作業はテクノロジーが代替できないか?そもそのその努力は必要なのか?など深い思考と数字での成果が求められる。
アンディの会社で求められるレベルはさらに高い。弱音を吐く暇などないし、新人であるがゆえにそのポジションは代替可能だ。今こうしてる間にも誰かがそのポジションを狙っている。
悪魔のアシスタントとしてアンディはプライベートでも大きな決断を迫られる。
昇進できるとき、仕事において一歩成長できるとき、人は何かを得る代わりに何かを手放さなければいけない。アンディにとってその代償はボーイフレンドだった。結果がどうなったのかは…見た人だけのお楽しみだ。
愚痴を言いつつもアンディの仕事様は劇的に変わっていく。
ここでの大きなポイントは「先回り」だ。
相手が求めるものや行動を、相手がそれを「欲しい」と言う前に差し出す。
これは仕事の鉄則中の鉄則だ。
私が最近読んだ『夢を叶えるゾウ』や『マーケターのように生きろ』にも書いてあったが、結局は人が求めるものを求められる前に提供できる人が1番強い。
昔から自分探しという言葉がある。本当の自分とは何かを知り、自分にしかできないこと、個を出して自分らしさをアピールしたいともがく人が多い。
しかし、だ。「本当の自分」なんてものが本当に存在するのか。仮に存在するとして、じゃあ今自分探しをしているお前は一体誰なんだ、
という問題に答えられるのか。
私は自分探しを100%否定しないが、私が思う幸せになる道の1つは、誰かの課題や問題や欲求を解決できるようになる、ことだと思う。そこには「個」とか「自分らしさ」なんてものはいらない。ただただ相手と真剣に向き合って、相手の立場になって物を考える。この姿勢が大事なんだと思う。
そう考えたとき、物語序盤と終盤で主人公アンディの成長が感じられるのがとても爽快だ。
人はどんな環境にいても成長できる。全ては物の見方、考え方次第だ。
自分で選んだ道なら、愚痴を言うのをやめよう。
自分で決めた道なら、その決断に自信を持とう。
辞めるのは簡単。逃げるのは朝飯前だ。
人生に練習試合なんかない。毎日が本番だ。
もっと毎日の決断に責任を持とう。
私は先に行きます。成長します。
あなたは…どうする?
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