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どうして作りたいのか⑧ 一つの結論

根無し草の孤独

今日はとても月が綺麗に光って空に浮いている。
昨日の嵐のような雨は去り、残った風は今も強く、シーンと冷え込んだ空気が全身に吹き付け身体の熱を奪う。

夕食をとるため、やや閑散とした街の中に出る。
暗がりを歩いていて、ふとだだっ広い荒野に一人取り残されてしまったような、心細い、どちらの方向に進んだら良いのかすら分からない孤独感に包まれてしまった。寂しい。
たまにこんな寂寥感に襲われることがある。
自分は一体何をしているんだろう?
と、急に世界から断絶されたような気になり、虚しくなる。

つい3日ほど前、20代前半の学生を終えたばかりのリモートワークで仕事をしている男性と話をしていて、話の途中、脈絡は忘れてしまったけど
「突然寂しくなるんですけど、どうしたら良いですか?」と、告白された。
「寂しさをちゃんと受け止める、自分のものにするのが大事なのではないか?」と、答えた。それをそもそも深く自覚することが始まりではないかと考えているのだ。
だが、答えは分からない。

この孤独感は誰しもが潜在的に持っていてるのだと思う。これは、もしかしたらそのうちマグマの様に表出したりするかもしれないし、地下で冷えて固まって表に出ることはないのかもしれないけど、東西問わず誰にでもある。

photo: 山のモンク, Biyagama, Sri Lanka, 2019

想像させるというコミュニケーション

実家は兵庫県の片田舎で、小山よりも少し高い山々に囲まれた、田んぼに畑が生活に密着したように広がった、町というより村で生まれ育った。
田舎なので、自然がわりかし(わりと)近いところにあり、歩いて5分もすれば藪の中に入れるほど山が近かった。
そのためか、鳥も多く、蛇も蛙も、魚も自分と近いところにいて、コミュニケーションを真剣に取ろうと試みていた。野生の鳥に近付いてきて欲しい、と念を送っても逃げていくし、触ろうとすればサワガニは威嚇する。おたまじゃくしに細かくちぎった苔を水面に落として、あげては、面倒を見ている気分になって、ほわほわした気持ちになっていた。
コミュニケーションは一方的で、なかなか友だちになれない関係でも見ているだけで不思議と嬉しい気持ちになる。今でもそうだ。

アネハヅル、という鳥がいる。
ヒマラヤ山脈を越える渡り鳥で、5000m〜8000mの高度を飛ぶそうだ。
山脈を越えるのは過酷だそうで、気温は−30℃、さらに台風並みに強い風の中越えるそうで、中には命を落とす個体もいるのだそう。

ぼくはこういう話でひどく感動する。
極限と言われる環境を、命をかけて越える渡り鳥が世の中にいる。
想像するだけで力と緊張をもらえる。
動物だけでなく、偉人や冒険家の所業もまた、自分の想像を明るい方に導いてくれた。

photo: 通学中のバスの中, Galle, Sri Lanka, 2019

忘れたくない月と星

いつもは、忘れてしまいがちではあるけれど、多くの動物たちと植物たち、日本人の友人、フィジーのPrakash家、パプアニューギニアの同僚に子どもたち、スリランカで料理を教えてくれた人たちなどなど。喧嘩した相手もいるし、嫌いな奴もいた。辛辣な言葉を言ってくるやつも、おだててくるやつもいた。中にはもう死んでしまって、二度と会えない知人もいる。
一緒に確かに生きているし、生きている間に確かに逢えた。
そんな確かな事実の喜びが、こういう孤独を感じる時に必要になってくる時があるのではないか。

月も星も、手を伸ばしても届かない手に入らない存在で、でも、見上げればそこにいてくれて、励ましてくれた。
世界中、月にまつわるたくさんの民話があるのは、民話にすることで月を人に近づけて、自分の近くに感じたかったからなのではないだろうか。敢えて安直に言うと、人は寂しがり屋だってこと。
夜の暗闇の中、心寂しい中、きっと多くの人が月の届かない存在に救われ、そして願った。
そんな絵が見えるのだ。

photo: お寺での祈り, Biyagama, Sri Lanka, 2018

ぼくがスリランカを目で見て、肌で感じて、一緒に過ごした時間はかけがえのないもので、驚きや感動、心が動いた時はやはり今も覚えている。
スリランカ料理は、カレーリーフやランペといった特徴的な組み合わせをすることが多い。作っていて、その匂いを嗅ぐ度に「あぁ、スリランカだな」と情景がまざまざと浮かぶ。あの人は元気にしてるだろうか、とか、南国らしい空気感が目の前に広がって冗談ではなくスリランカに行っている気になる。
これは、作る度に心が通っている幸せだと言える。

物理的に距離があって、顔を合わすことすらできない人もたくさんいる。
実際の所、今まで出逢った人の大半とは再会を果たすことはないだろう。
だけどやはり、二度と会えない人であっても幸せでいて欲しいと願う。
遠いところから、そっとそんなことを想っていたい。

「忘れられた時、人は本当の意味で死ぬ」
という言葉があるけど、その点ではぼくは死なせなくない人だな。

スリランカでの体験は、いわば、ぼくとスリランカの対話だった。
心に響くシーン、思い出す情景、印象的な言葉、思い出す街の匂い。
これらは、自分と彼らが持っているものが響き合った結果、心に刻まれたということになるのだろう。

ぼくの旅は、料理と共にある。
料理は、人と土地が時間をかけて醸成してきた集大成で、本質的に人の生活の中心にある。逆に、料理を見れば、その国の風土に歴史、考え方が分かるはずだと信じている。

photo: 集会での食事, Biyagama, Sri Lanka, 2018

どんな本を作りたいのか

本を作ることは、一つの星を夜空に浮かべるようだと思っている。
スリランカとの対話で感動したものが核となって、一つの形をなす。
空が好きな人は、きっとその星を「発見」するだろう。

その星は「光り輝く島」を照らし、今を全肯定する(表面をさらうという意味でなく)ものでありたい。料理を構成する、人と自然、考え、生き方が生命力をもって、働きかけるものでありたい。
夜を見上げれば輝いている星のように、身近な存在になるとの願いを込めて。

いつでも本当にそうだと実感できれば、繋がっている。
ぼくは寂しがり屋で、記憶を忘れたくない、執着まみれの男のようだ。どうやらそうだ。

photo: 料理を習い中, Colombo, Sri Lanka, 2019

cover photo: トラナ(※1), Biyagama, Sri Lanka, 2019

※1、仏陀の生まれ変わりを含めた一生を描いた建築物。6月の満月の日、ポソンポーヤで街の中にちらほら建つ。



どうして作りたいのか?
という問いに対して、随分と色んな話から、見てみようと試みました。何度も書き直して、消して、書いて。
溜まっているストーリーはいくつかあるのですが、時系列に沿ってないぞ、などと考えてお蔵入りにしていました。
でも、一つ一つのストーリーが長すぎて、時間軸で丁寧に追うともう年内はおろか、1月中にも難しいだろうという予測が立ち、本日寂しいなという気持ちに深くなり、書き始めたら一気に書くことができました。
一旦は、これで年内の製作に向けて進めていくことにします。
お付き合い下さり、ありがとうございます。
人に見られているという意識で書くことで、今まで自分が言葉にし切れてなかった感覚を文字にして、より深く自覚することができました。
きっと製作をさらに進めていくと、また言葉にしきれない塊が出てくるように思います。その時はまたご助力頂けると幸いです。
ちょこちょこと、東南アジアの旅、青年海外協力隊の話はアップして、自分自身新たな「発見」をしたいと思っています。
どうぞ、これからも宜しくお願いします。
という変な終わり方で「どうして作りたいのか?」というタイトルで書くのを終えます。
ありがとうございました!



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