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どうして作りたいと思ったのか④ 一人の個人は覚悟する

過去のことを書いていて想うのは、今を全肯定したいということ。
辛かったことも、虚しかったことも、笑いも、楽しかったことも、今の一点に集中させたい。
実際に、幸せを感じていた想い出も、力が及ばずどうしようもなく途方にくれた想い出も、今にある。
そんな一つ一つを、好き嫌いという両面から、善悪を越えて、言葉にできるほど感覚の上で細かく観て、自分にしたい。
そうでなければ、自分を出し切って作品を創ることはできないだろう。
傷は花を咲かせねばならない、そんなフレーズが好きな本に書いてあった気がする。

独り立ちの始まり

転機は突然に訪れる。
会社が倒産したのだ。
入社からわずか1年3ヶ月程度のことだった。

突然の自由。そうなるとそれはそれで困るものだ。
「明日死ぬんだったら何を今したいのか?」
という問いに、何の障壁も言い訳もなくなるのだから。

現実的に時間がある。
思う存分に寝ることも、好きな時間に好きな場所に行くことだってできる。最初にしたのは漫画をひたすら読むことだった。単にやりたいことを思いつかなかったのだ。TSUTAYAで自由を謳歌できるぞ!とワクワクしながらシリーズ一気借りするも、2日で完全に飽きる。
再度就職活動へ!という気には到底なれなかった。あんなにオモシロクない日常に戻ることは絶対に嫌だった。

でも、この先収入が定期的に入ってこないのは明白だった。
ゆっくりと確実に減っていく銀行残高はぼくに漠然とした恐怖を与え始めた。「会社の保証」を失ったことを身を持って知っていく。大海原でポツンと浮かぶカヌーにいるような、突然の波に簡単に飲まれてしまいそうな妄想じみた恐怖。どれほど保証、安全にならされたレールの上で生きてきたのか。
とにかくどの方向でも良い、漕ぎ出さないといけなかった。

ある日後輩が言った、
「この夏はどこで何するんですか?」と。
でまかせで「富士山で働こうかな」と答えた。
富士山で働くことは、大学時代にやりたかったけどテニスを優先しすぎてしなかったことだった。
「そんなこと言いましたけど、しないやつですね」
反発心というかそんな子どもじみた心がバネになり、未知への躊躇いを飛び越え、その日富士山で働きたいと電話をかけ、家を解約した。

photo: ヤシガニ獲り, Mbunai, Manus, PNG, 2015


やりたいことを一つずつやっていく

一度動き始めると感覚が広がるもので、ホコリを被っていた「やりたかったこと」は実はあることに気付いた。
一つに、海外に漠然と行きたいというのがあった。憧れの感覚に近く、死ぬ前には絶対に行っておきたいと、自分が先の決断をし始めると急にその想いが立体的にリアルになった。
富士山の次は海外に行く、そう決めた。国は友人が以前に東南アジアを回ったと聞いたので、自分もそうしようなどと安直に決めた気がする。

富士山での生活はそれはもう楽しいもので、仕事に対する安心と勇気をもらった気がする。どの仕事も暗澹たるものではなく、希望があることを識った。

海外経験が全くないのにいきなり3ヶ月バックパックするとある友人に伝えると、
「死ぬで!」と一言。
これはと想い、台湾へ約2週間。控えめに言ってめちゃくちゃ楽しかった。言葉のイントネーションも街の雰囲気も、どこからともなく街全体に漂っている八角の匂いも、コンビニの商品も全てが新鮮で毎日ワクワクしていた。

英語はとにかく苦手でボディランゲージで何とかできるんじゃないかと思っていたけど、限界があった。喋れたほうが楽しそう。。。

しかし、センター試験の英語のリスニングは50点中14点。センターは4択だったので、何も聴かずに適当にマークしてもこれぐらいの点数になる。それほど英語は判別が付かないし、当然喋れなかった。ものすごく苦手だった。

これはと想い、語学留学に行ってから東南アジアを回ることにしようと決める。留学はフィリピンかフィジー。

フィジーってどこやろ?知らんわーと思って調べたら、ニュージーランドより遠い。どうせ行くなら遠いところへ、と約3ヶ月ホームステイすることになる。

photo: ファーマーズマーケット, Biyagama, Sri Lanka, 2018

cover photo: 荷降ろし, Buttala, Sri Lanka, 2019

ではまた!

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