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どうして作りたいと思ったのか⑤ 知識は知ったかぶりをさせるのかもしれない

本を作りたいと思っている。
noteが自伝のようになっているので念の為内容について書くと、自伝ではなく、客観的な事実を主観で切り取った、写真集に近い食から見るスリランカを表す本でありたい、と思う。
今書いている文章は、その本の背景ということになるはずで、製作の精度を高めることになると信じている。
実際、こうしたいああしたいは見えてきた。

人は優しい。背中を押してくれた台湾

初海外は台湾で、約2週間、その後に控える東南アジア、ネパール、インドの約3ヶ月の一大行事を見据えての旅だった。この先の旅は、現地の人とできる限り同じものを食べて、交流をして、その場の空気感を味わう。そんな像を気づけば描いていた。きっと、沢木耕太郎の深夜特急の影響を多分に受けていたんだと思う。
この台湾の旅もそうしたかったのだ。

予行演習をかねての台湾一人旅は、大都市の台北から始まる。
初海外というのもあってか、全てが刺激的で新鮮に満ちていた。スーパーに並ぶ食材も、言葉の抑揚、文字の雰囲気、文化的に全く経験したことがない場所に来ているという興奮があり、真上から照りつける太陽光は、今まで生活してきた地理環境ではないことをより明らかにした。
初めて知らない人と同じ部屋になるゲストハウス、英語を話して要求を伝えなければ目的地にたどり着くことさえできないバスの中、自分が外国人になった感覚。

言葉が通じなかったけど、人がとても優しかったのを覚えている。英語も単語レベルでしか話ができなかったのに、なんとか察してくれて、道を教えてくれたり、バスで降りる場所を教えてくれたり。

結局、不安とワクワクから始まった旅は、ボディランゲージでも片言の英語でも自分の意志を伝えられればなんとかなると思えた。上手く伝わらず相手も自分も困ったことは多々あったし、自分を客観的に見るとコミュニケーションの失敗だらけと言える。
ある意味、失敗に慣れたのか、失敗の定義が変わった気もする。上手く話せないことは失敗でなく、伝えたいことが伝わらないことは失敗と言っても良いのかもしれない。

この台湾の旅は、台北、九份、基隆、鹿港、台中、台南を2週間ゆっくりと公共交通機関で回った。
意外に人は優しいということを実感し「死ぬで!!」という友人の言葉を想い出した。

photo: カジキマグロ釣り, Manus, PNG, 2015

今、多くの人と一緒に生きているという実感

フィジーに語学留学で約3ヶ月滞在することにした。
留学期間、ラウトカという首都スバに次ぐ第二の都市で、その街の郊外に住むPrakash家にホームステイして語学学校に通うという内容だった。
フィジーに実際に滞在してから知ったのだが、Prakash家はインドをルーツとする家族で、植民地時代にインドから10000km以上離れたオセアニアの島国フィジーまでプランテーションの働き手としてイギリスより移住させられたという歴史があり、その末裔ということになる。今でもフィジーの人口比率の約40%がインド系住民で、「勤勉で計算の強いためこの国の経済を支えている」と滞在中何度か耳にした。

教科書で世界地図を見た。高校で、どこにどんな国があるのかを大まかに覚えた。内陸は気温の変化が海沿いに比べて大きく、一方の海沿いは気温の変化は緩慢で同じ緯度でも内陸よりも最低気温は高い。比熱による。
そんなことを覚えてきた。
フィジーを地図上で見た時、気候区分的には南国だと判断し、ネット上の画像ではやはりココナッツが生えていることを確認した。
色々と学んできたはずだった。降雨量、気温の変化についての棒グラフからどの都市なのかを、経済やら産業やらをテストでしてきたのだから。
そこに、人が暮らしていることを当たり前に想像していた。

でもホストファミリーとの生活で、知識で得ているのは予想で、実感を伴う経験ではないことを知る。
人が、当たり前に、日本から遠く離れた土地に生きている。

photo: カティナ祭でのふるまい, Biyagama, Sri Lanka, 2019

Prakash家は祖母(父の)、父、母、娘、息子の5人家族でいわゆる2世帯。彼らはヒンドゥー教徒で、ディワリという祭りを行い、ちょこちょことコミュニティのカバ飲み(※1)にも参加していた。ディワリにしても飲み会前の儀式にしても、火が印象的で、祈りを含んだ仕草に、日常の中にあるささやかな願いが込められているような気がして、心穏やかにその輪の中に溶け込んで彼らの日常を過ごした。
子どもたちと一緒にホラー映画を見て怖がったり、Rishal(息子、当時10歳ほど)と手遊びをしてムキになってイラついたり、パパとフィジーラムをあおったり、ママにチャパティ作りを教えてもらったり。
あっという間に3ヶ月は過ぎた。
出国前日には18年ぶりの大型サイクロンに見舞われ、隣の家の屋根が吹き飛ぶのをうちの窓からRishalが楽しそうに見ては「See!! See!!」と言っていた。別れの朝、Rishalは泣いていた。ぼくもすごく寂しかった。帰りたくなかった。
家族に見送られ、バスに乗るため街に出た。道中、前日の猛烈な雨風で半壊した家を直しながら、フィジー人が「Bula!!Bula!!」と状況に反してあまりに陽気な挨拶をしてきた。「Bula」は「こんにちは」を意味する言葉で、よくもまぁこの状況でこの明るさが出せるものだと思わず笑ってしまった。しんみりした心境を帰して欲しいと、何故か明るい気持ちで思ってしまう。相好を崩す、とはこのことを指すのだろう。

その日、30人ほどの日本人がフィジーから帰国した。彼らも一人一人、良かれ悪かれその土地や人に想い出を作ってここまで来たのだろうな、などと想った。
到着した関西国際空港は12月中頃の寒さで、日本に帰ってきたことを実感させた。

留学はどうだった?と聞かれる。
「人が生きていた」と答えていた。
知識上のフィジーの人は、いつの間にか一人一人という明確なイメージとして心の中に存在するようになり、心が通ったという想い出はフィジーを近い存在にさせていた。
確かに人が、遠い南国の島でも同じ様に人として生きていた。
そんな事実が嬉しかった。

photo: 葬儀で料理を作る, Manus, PNG, 2015

ではまた!

cover photo: 魚市場で魚をさばく, Galle, Sri Lanka, 2019

※1, カバ。嗜好品。コショウ科の木の根を乾燥させて絞った飲み物。泥水のような微粒子が残る飲み口に、味は悪くない泥のようだった気がする。アルコールはハイにさせる傾向があるが、カバは麻痺性がありダウン系だ。 ぼくは飲みすぎて唇の感覚がなくなった。フィジーでは桶いっぱいにカバを絞り入れ、宮古島の「オトーリ」のように回し飲みする。

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