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社会課題に取り組むということ〜ハードルを下げるというこへの危惧〜
はじめに
先日とある社会課題について考えて自分達には何が出来るか話していこうという趣旨のコミュニティーから除会されて思ったことを少し書き記しておこうかと思います。
大前提としてコミュニティー自体はできるだけハードル低く社会課題というものに触れてもらい考えてもらうことを目的とした場所で、今までちょっと興味はあったけどなかなか勇気が出なかった層をターゲットにした団体でした。
そして、このハードル低く課題に取り組むということ自体は最近のトレンドでもあります。
多くの業界の人たちがいわゆる「当事者意識」を持って取り組んでもらうためにハードルを下げることに躍起になっています。
「もどかしさ」の正体
民主主義という社会の中で、無関心の層をどれだけ取り込めるかは確かに大事ではあります。
専門家だけで話ててもなぁという気持ちもよくわかります。
なので知識をや経験を持った人以外は社会課題に取り組むな!という排除の理論をいうつもりもありません。
しかし、専門性とはそのことについて膨大な知見の集合体だと思うんです。
専門性には専門性たる所以があると思っています。
では社会課題の専門性とはなんでしょうか?
その答えはこれを書いている僕にもわかりません。
でも、努力して様々な取り組みやその背景にあるものを見ようとはしてきました。
そして思ことは、ハードルを下げることがそのことについて掘り下げて考えていくことを辞める行為に見えているということです。
そして体系化された知見というものが存在していない今でも、事象として何が起こっているかを認識することだけは可能だと思います。
そして表層的なことだけを見ていても多くの「もどかしさ」に出会います。
だからなんでこんな簡単なことも出来ていないのだ?と憤りの念が湧いてきます。また、自分だったらこういうことをするのにというのも思いつきやすいです。
故に社会課題解決の界隈に飛び込んでくる人はどんどん増えています。
(他にもたくさんの課題が可視化されてきているという現状も無視できないですが)
そして、何かを変える上で人の数は大きな武器になります。
だから、草の根運動はとても大事なんです。
ただ、社会課題に関わるということは生半可な気持ちでは務まらないことは敢えて申し上げておきたいと思います。
社会課題解決のための行動をしたときに1番先にその煽りを受けるのは当事者たちであることは忘れてはいけないと思っています。
(そうじゃない人がたくさんおられるのは重々承知しております)
ハードルを下げて考えていくことの意義も意味も個人的には理解してるつもりです。でも、ハードル低く手を出していい領域でない事は強く申し上げておきたいと思います。
それがどのような結果を生むかは既に歴史が既に証明しています。
専門性の意味
現状の社会課題へのアプローチは正に西洋医学における疾患部への処置と同じです。要するに、社会の問題箇所にメスを入れるカタチで変えようとしています。
そしてその事自体の是非をここで問うつもりはありませんが、現実世界の医者には医師免許というものがあり、それを取得する為に膨大な量の知識と経験を積んでその上で特定の場所とシチュエーションにおいてのみその力を使うことが出来るようなシステムになっています。
その事が意味することは言うまでもないと思いますが、それ程までに他者に対して何かするというのは重大な事なのです。
幾重にもセーフティーを掛けられて当然の行為なのです。
現状の社会課題解決の手法はそれぐらい暴力的(大きな力を持つという意味で)な行為だという事を多くの人はまだ理解していません。
これがもし普通のビジネスであれば不確かな情報と経験で思い付いたまま何かをして、仮に失敗したとしても自身が怪我するだけなので「学びになりました!」で問題ないと思っています。
しかし他者が関わるときは話が別だと思います。家で料理して友達と食べるのには資格は必要ありませんがお店で提供するには資格と免許がいるように、友達とドライブに行くのは問題ないけどその行為で金銭が発生すれば二種免許が必要なように、社会課題という人が中心にいて何かしらの構造が生まれている(できる・できないやある・ない等)以上そこにど素人が出来る事などほとんどないと思っています。
一方で誰もが始めは素人です。知らなくて当たり前です。だからそこで何に出会うかが大事だと思っています。
その上で自分が何が出来るのかを考えていくという段階を踏んでいくと思います。確かに、その世界の常識が入っていないからこそ見える部分や、灯台下暗しになっていることもあるでしょう。
だからこそ知識を持った人とそうでない人が混ざりながらやっていけばいいと思うっています。
逆にその渦中で専門的な知見なしにやっていくことは大きな危険が伴います。その分野にはその分野特有の倫理観が存在します。
それがときには牙を向くこともありますが、少なくともそのことを批判するためには一度その世界のことを知ってからでも遅くないと思います。
逆にその前提を共有できていないことこそがミスコミュニュケーションの元なのではないでしょうか?専門性というものは専門性たる所以があるものです。
膨大な知見と歴史がそこには在ります。
正直、何も知らない人が思いつくような事は過去に誰かがもう考えついています。
だけど今そのアイデアが実在せずまだ課題が解決されていないのはそのアイデアは失敗したからに他なりません。
そしてそこには必ず当事者たちの犠牲が存在しています。
それを学ばず同じ失敗を繰り返してまた当事者を犠牲にするということが僕には耐えられません。
だから僕は当事者についての研究をしたいと思っています。
正確には、当事者から人格を取り除いた当事者性というものを蓄積させていくための基礎研究がしたいと思っています。
そのさきに、医学の世界における「症例」のようなものを作りたいと思っています。
個別具体的な当事者たちの体験から当事者性を抽出するのです。
そうすれば当事者はもう当事者たちは当事者にならなくて済みます。少なくとも多くの当事者が「当事者になる」以外の選択ができるようになると思います。
上野千鶴子さん言うところの当事者たちは皆当事者で「ある」がその中の一部だけが当事者に「なる」ということが指していることと同義であると個人的には思っています。
下げていいハードル、下げてはいけないハードル
だからこそ、社会課題に取り組んでいくうえで下げていいハードルと下げてはいけないハードルがあると思っています。
社会課題について知ってみようというハードルは下がればいいと思っています。考えてみたいというハードルも下がっていいと思います。そして考えてみるためにすでに行動してる人に声を掛けたり話を聞いてみたりするハードルも下がればいいと思います。
でも、実際に行動するハードルだけは下げてはいけないと思っています。
別にタクシーの運転手になりたい夢も、料理人になりたい夢も、医者になりたい夢も、それを抱くことのハードルは個人的にはないと思っています。
でも実際に運転するにも、調理するにも、手術や診断するにも免許というハードルが存在しています。社会課題解決にはそれがない。そこが問題だと思います。
また、他の人は知ってるけど自分は知らないことが「恥」だという自己肯定感の低さは何なんでしょうか…
個人的には根本原因はそう思ってしまう「学校教育」だと思っています。
知らないのなんか当たり前なんだから、知りながら考えていけばいいのにと思ったりします。
故に本質的なハードルは「知らないと入りにくい」みたいなハードルだと思います。
なので、そのソリューションは「知らなくても話してそれが肯定してもらえる場所」ではなく、「知らない人も知ってる人も混じり合った中でお互いにとことん話せる場所」なのではないでしょうか?
残念ながら知らないと始まらないことも沢山あります。
それに目を瞑って、知らなくても「あなたの意見でやってみればいいじゃない」は沢山の犠牲者を生むことを歴史が知見として残してくれたのではないのでしょうか。
個人的にはその辺りにモヤモヤします。
ちなみに、近しい課題感というか構造的課題を持っている界隈が教育だと個人的に思っています。
しかも教員に関しては「教員免許」があるのにです。
ただそれは「学校教育」と広義な意味での「教育」の境界が曖昧になっていのも大きな要因だと思うので構図が似てると思うのですが…
ここ最近爆発的な社会課題への関心の高まりの渦中で僕が思うことでした。
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