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さすらいに誘う妖しい声……

しかし、わたしに罪はないと思うのだ。
でもだ、妻や子どもに申し訳ないな、とは思う。
それは、耳福の陰謀というか、熱に感染してしまったのだから。
そうだ、感染は感染してしまった人に罪はない、すあまー(!?)がいけないのだから。
だから、わたしに罪はないのだ。

わたしは、すあまーになってからというもの、よく歩くようになった。
歩かざるを得ない、というのが正しい。
すあまーは足で稼ぐというか、巡るというか、さすらうというか、さまようというか、なんというかなのである。
今日もわたしは妻と娘に「いってくる」と告げ、家を出る。妻と娘は嘆息とともに見送ってくれた。
妻と娘にとってすあまーは、「なぜそこまで」と思わせるものなのだろう。
わたしは妻と娘のため息を耳にしながら、靴を履くのである。今日も長く歩くことになりそうだと思いながら。

歩きながらイヤフォンで耳福の番組を聞く。
耳福は「耳福」さんという個人名ではない。美しい風景を見た時、「ああ、眼福を得たり」というように、目にして幸せを感じることを眼福という。耳福は聞いて幸せを感じること、感じるもののことだ。
イヤフォンから流れてくるのは、心地よい、幸せを感じる声である。
耳福の声はラジオから流れてくる。そして、毎日のように聞くことができる。
ラジオの中で、彼女はしきりに「すあまー」であることを語っていた。
わたしはそれまで、世の中にすあまーなるものが存在することすら知らなかった。
彼女がすあまーであることをカミングアウトしてから、ツイッターでも「わたしも隠れすあまーです」と名乗り出る人もいた。世に隠れていたすあまーたちが姿を現しはじめたのである。

いやいや、たかが「すあま」である。
たかがといったものの、今まで「すあま」の存在を知らなかった。
ラジオから「わたし、すあまが好きなんです」と聞こえてきた言葉に疑問符がついた。「すあま」って何だ?
聞けば、どうも食べ物らしい。和菓子の類いだそうだ。そんな和菓子があったのか、和菓子に詳しいわけではないが、日常的に食べる庶民的な和菓子、例えば団子とかモナカとか類いなのだろう。が、「すあま」は寡聞にして聞いたことがない。コンビニでもスーパーでも和菓子屋さんでも、目にした記憶がない。

「すあま」なるものの存在を知ったからには、その味を味わってみたくなるのが人の常というかわたしの常だ。早速近所のコンビニを巡り、食品スーパーに足を運び、総合スーパーの食品売り場を訪れた。しかし、ない。「すあま」がないのだ。探し方が悪かったのかもしれない、夜に行ったので売り切れていたのかもしれない。散々歩き回ったので、その日の歩数計は1万歩を軽く超えていた。
これまで、1日数千歩がせいぜいだったのに、1万歩を超えるとは。
恐るべきは、彼女の声だ。

さらに数日、毎日一万歩以上を費やしたさすらいの末に手に入れた「すあま」は、かすかな甘みを残して、喉を滑り落ちていった。これは、これは何個でも、毎日でも食べてしまいそうだ。
で、わたしは時間があれば、買い物に出かけた折には、すあまが置いてあるスーパーに出かけ、何個もの「すあま」を手に入れるようになってしまった。
やれやれ。
「すあま」を愛し食する人のことを「すあまー」と称するらしい。安易かつ安直なネーミングだが、意味はよくわかる。そして、わたしも易々と「すあまー」になってしまったのだ。恐るべし声の力!

すあまを求めて、日々歩き回る。これはいい運動になるのだが、いかんせん「すあま」は米と砂糖が原料だ。何個も食べてしまっては、買い物のための運動だけでは足りない。糖分の過剰摂取になってしまう。などと思いつつ、日曜の昼前、何気なくテレビを見れば、彼女の声が聞こえてくるではないか、通販番組をやっているのだ。テレビ番組だから、声はもちろん姿を見ることもできる。耳福にして眼福ではないか! そして、何、それでダイエットになるのか、え、やってみると近藤春菜(ふたりでMCをしているのだ)も、彼女も「効くわ~」などといっているではないか、あの声で。これはまずい、この通販番組を見ていて、思わず強力洗剤を二袋も買ってしまった前歴がある。これはまずい、何かをポチッとしそうだ。
恐れなくてはならないのは彼女の声だ。

今一番人気のアイドルグループに属する彼女、彼女の声が、話すときの声が好きだ。ハスキーでも、アニメ声でも、ただ若い女性というだけの声でもない。体育館の端で普通に話していても、体育館中に聞こえるような通る声。木綿のような力強さを持ちながら、絹のような滑らかさをもあわせて持つ声だ。この声をずっと聞いていたいと思わせてしまう妖しさを持った声なのだ。
もちろん、彼女の声色だけがわたしを1万歩も歩かせたわけではない。声に乗って届く話の内容に心が動いて、足も動いて、一万歩になったのだ。
人を動かす力は、ロゴス(論理)・パトス(感情)、・エトス(信頼)だとかのアリストテレスはいっている。彼女の話にはロゴスとパトスそしてエトスがある。話の筋道は明快でロゴスを満たし、淡々と話しながらもふと漏らす声に感情が表れ、彼女の背景とか、クイズ番組や教養番組に出ていることで醸し出される信頼が、わたしを一万歩に誘いだすのだ。

彼女の存在を初めて知ったのは、深夜の彼女が属するグループの冠番組だった。8年ほど前、彼女はまだ高校生だったはず。その番組で彼女は「あざとい」と他のメンバーからいわれていた。今は「あざとい」は可愛らしい仕草の意味合いが強いが、その当時は「わざとらしすぎる」とネガティブな感じで使われていたとおもう。彼女はわざとらしすぎるくらいに可愛らしさを押し出していた。異年齢の女性ばかりが集う団体の中で、どのような立ち位置をとろうかと、模索していたのだろうか。なんとも健気ではないか、と思ったものだ。彼女は、あざとい女子からいく年かを経て好きを軸にして、耳福の人になったのである。
そして、彼女の歌声、ダンスも話し声に優るとも劣らず心をくすぐる。
アリーナを黄色のサイリウムで埋め尽くす「コンパス」の歌声、飛び立つ鳥とも見紛う「ルール」のダンス。倍音がかかったような歌声、優美に舞う姿に、震えてしまうのである。

そして、今日も彼女の声に魅せられて、チョコバットを買ってしまった。困るなあ、もう、乃木坂46の山崎怜奈さん。

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