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■解答不能性としての可能とオルターモダンということ

  

・解答の不能性に到達した現代は、ひとつのアートであり、アートはそのために複数に分かれながらも、そのとおりに分有しあい、循環していく


・言語的到達以前性か以後かは判明していないが、人類の起源と定義が往来する最中に、生命的なものの起源さえ、滲む


・全難民化の理解を促すことは、容易ではなく、働く主婦は、尚持って、なぜ、働く主婦であるのか、を問うことは、そのとおり、そう、そのとおりに困難であるが、その困難に開破されなければ、モダニズム以降の、ポストモダニズムなもの、の徐解は難しい


・いずれにせよ、そのときに浮かび上がるはずの主語相当は、オルターモダンのなかで、巨大で細やかな動態にある


・全難民化を盲目にするグローバリズムから、脱するために、まさに、エクソダス(出エジプト的)を敢行するためには、敢行的な態度はさほど不要であり、たしかに、アコルーティア的であれ、と云うことに成る


・たとえば、あの忌々しい真理というものが、なぜ、現実世界や社会や生活に役立たない、応用不可能かといえば、真理のまえに、現実世界や社会的や生活が従属しているからに他ならない(真理こそが世界を使役するということに他ならない)


・われわれが必要とする形式は、コンテポラリーアート的であり、オルターモダンとは言い難い。われわれが必要とするのではなく、あまつさえ、われわれが必要を必要とするようなポストポストモダン的なもの、その文字列に秘められながらも暴露されているその、資本主義的なものの虚莫さに、オルターモダンは、われわれが必要とするのではなく、必要自体こそがわれわれを必要とするのであるという態度をとる


・われわれは必要を必要とする虚莫に疲れ果てているのである。その、疲れた果て、の共感が、われわれの間に揺蕩いながら、ついに、必要が、われわれを必要と宣告するとき


・彼方の真理と此方の真理は、実はひとつのものである。此方から真理を所有しようとしたときに、それはこの世の神になり、彼方の真理から所有されるときに、それは、神である(いずれにせよ、ポストポストモダニズムのメイヤスーが、神の死を越境しようとする以上、神、という語は、オルターモダンでは、出エジプト記的なもの、つまり、エクソダスとして、われわれをして、われわれを、語られる)

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