仄のめかす黙した木々のこと。あなたとわたしと、他の聖なる動物たちとの答えについて 7/28 どのようにしても超越にキリストをみてしまう場合において
■寂しさの哲学
・寂しさがある。おそらく、死の不安に基づく、個体を維持しなければならないことへの寂しさ
・そのことを自覚できずにいると自罰傾向に陥り(悪いと他罰傾向)、硬直し、自分の強さというものに始終拘ることになる(最中、壮絶な虚無と苦しみが襲う)。反面、寂しさを認めると、自らの弱さというものが発露して寂しさに泣くことができる(これは男でも可能である)
・この際の寂しさゆえの涙は大変心地よく、恥ずかしさも伴わない(これが本物の強さである)。本や詩のページなど見ながら自らという人生に対して健気に泣けるものである
・寂しさの根本は、死、である
・寂しさは現代の生活のなかでは、容易に、精神的な病に結びつく。つまるところ、レヴィナスのイリヤ(人間が不眠になるのではなく、夜の側が不眠になるのである)が訪れるということであり、イリヤは現代人にとっては安易に行けば自罰を感覚させる
・どういうことかと言うと、個体性ということが引き起こす、孤独感や孤立感、を寂しさの涙に解凍できずに現代人は、罰してしまうのである
・だが、この孤独感や孤立感は、そもそも、人間が個体であり、その究極たる、いずれ死ぬこと、から訪れている
・当たり前のことであり、現代という領域が、死、という領域とどれほど隔たれているかを意味しているし、その隔たりこそが、人間の寂しさや涙に正統性を付与させずに、それ自体には意味のない孤独感や不眠、精神的病に押しやるのである
・逆に言えば、人間がいずれ来る自らの死、を自覚する程に、現代という領域では、この乖離を埋める受難を引き受けうるということでもある(少なくとも、孤独感さえ感じない人々より、病的にある人々のほうが、より、死の自覚への挑戦をしているとさえ言いうるのである)
・死の自覚がない限りは、生は唯一回性を自覚できずに、実感を拡散させ、寂しさで自分に対して泣くということさえできなくなっていく
・自らの死を忌避しないということ
・これが死の自覚である
・いつか自分が死に至るということがどれほど素晴らしいものであるか、を実感できるときに、生は歓喜に至る
・さて、しかしながら、自分の死を愛することは、哲学のみ、ではかなり困難を伴う(超越的視点と体験が求められるのである)
・自分の死を愛せる視座とは、崇高のなかの慈しみ(神聖さ)である
・哲学のみでわたしはこのことを語る力を持たなかったので、いわゆる超越体験(大目に見ても神秘哲学)による
・説明が困難なので、キリスト教のコンテクストとある男の話を引用する
・使徒ペトロが、キリストにならい自ら磔に向かった不合理について、ある男も従った夜だった(ひとつの観想である)
・その判断は、全くの不合理であり、そこにはナルシシズムや英雄主義のない、純真にイエスについて行くこと、つまり、自ら磔に向かうという不合理のみがあった
・その夜にあげられた場所があの楽園のようなところであり、超越であった
・そこは、永遠、であり、永遠のうちから、有限性をみた、というよりも、永遠に本当に触れてしまった
・少しの束縛もなく、あまりに崇高かつ神聖なる領域であり、有限から有限性が消えていくのを感じられていた
・だが、そのとき、男は、そのあまりの美しさとも崇高とも神聖とも言えない、「郷愁の願いが叶ってしまった」感覚。ヌミノーゼ(神聖なるもの)のうちに、おそれおののき、咄嗟に、有限にしがみついた
・男は、途端に、有限の世界に舞い戻ったのである。使徒ペトロが水上歩行の最中に、おそれおののき、水没しかけたように、である
・そうなのである。永遠や、あの楽園のようなところは、もっともな存在を有しているにも関わらず、それが崇高に過ぎ、神聖に過ぎることに、われわれは、おそれおののき、有限性に舞い戻ってしまうのである
・男はそのあまりの神聖さにおいて「死んでしまうのではないか」というおそれとおののきを抱いていた
・そのとおりである。男は後少し上げられれば死んでいたようにさえ思う
・死とは、根源的な郷愁の願いが叶うことである
・夕日を浜辺で眺めるときに、いいようのない郷愁とともに何か根源的な感情が立ち上がる。だが、夕日は遠みにあるために、われわれは何か安心をするが、もし、その夕日、つまり郷愁感が、向こうから近づいて、近みに達したときに、われわれは、ことの次第を識るのである
・なんらかの心残りや情態性が、人間を人間に押し留めているようにも思う
・だが、いずれにせよ、死とは、遠みと近みを往来する神聖なるものの来訪のことなのである
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