アートメモ ローエ

・ロゴス、ミュトス、レンマ、に続く言語―言葉系としてのローエ

・言うまでもなく、絵画、は神律的芸術としてのことばであるし、井筒俊彦的なコトバ、ダーバール(言即事)、プネウマ言語、真言、ユング的なシンクロニシティなども含んで良い(多大なる敬愛)

・神への愛、の形態。神からの愛としてのアガペーをクラインの壷の位置から巻取り(エヒィエロギア)、気がつくと、反対方向の神へ向かっているとき(エペクタシス)/この際振り返ればクラインの壷は虚構から実在になっている(神曲的転回)/神への無限の愛になっている(アウグスティヌス的な自由意志の、ヌーメンたる神の意志との一致)

・神への無限の愛は、あたらしい神聖なる庭への道行きと飛来であるし、愛というベクトルで表される力動なので、言語表現が難しい

・神とは、まずは、「神は神」という説明以外の一切の言語性、文脈を振り切ったところの神であり、その後に各宗教や神学的な文脈をともなってよいものである

・さて、ローエは、芸術言語ー言葉系である

・そこには、人間が、人間を自分で存立させようとする倒錯ー傲慢は、ない(アーティストが、アーティストを装い続けるその虚しさは、ない)

・つまり、アートは、ひとつの出来事、であることを望むが、そこに神が不在であることが問題なのである/宗教的な意味ではない/神という語の意味性を理解していかなければならないのである/(芸術は死んだ、絵画は死んだ、というあの言葉の意味は、それが、出来事、であるのを実はやめている、ということである/背面には、神は死んだ、という一言がある)

・結果、アートや芸術の虚無に苦しむ作家、作者、やアーティストたちは、そういった深遠にまでたどり着き、「神は死んだ」から始まった虚無を抱き愛にしていくことになる(これはぼくの言葉におけるローエ的な前段階である)

・神は死んだ。然り。だが、死ぬことでしか復活にたどり着かないということで、すでに神の死は神にい抱きしめられ、歴史的には、西暦のはじめあたりに遂行され終了していることでしかない(ニーチェのそれは、フラッシュバックに過ぎない)

・このときにみえるのは、神の愛である(そして神への愛になるように)

・ひとつに、かつていた楽園とやがてくる楽園の間に、楽園がひらかれるように

・つまり、人工化されたところの、出来事、の復活である

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