エクリチュール Quo7  神の到来、死、原約束性

■エクリチュール Quo7  神の到来、死、原約束性

・前日に宅配員に着払いで2690円を用意しておいてください、と言われていたが、完全に忘れて、寝ていた

・インターホンが鳴り、電話が鳴ったが、わたしは不在、を演じ続け、その間に切迫する恐怖が襲った

・他者との約束を〈完全に忘れていた〉というときに、唐突に、その他者が約束の履行のために、長い道のりを経て、到来したとき

・忘れていた他者が、自分のためにその間、行動し続けていた、と知ったときに、恐怖に身震いする

・そのときに、死、と似たものを感覚している気がするのである

・立場、というもの。自らが生きたり、自分を肯定している自信のようなもの(自然的、自己肯定)。つまり、今日的には、〈立場〉が、事前に取り結ばれていたなんらかの〈原約束〉を〈忘却〉することで、成り立っていた、だけ、だと判明したときに、自分という〈立場〉が根こそぎ喪失される震撼におそわれる

・〈言い訳不可能性〉の恐怖。立場が喪失されることについて、もはや、言い訳、も不可能なときの恐怖

・死の恐怖に似ている

・死の恐怖とは、即、「約束をしていながら、その履行を忘れていた他者の、約束履行のための当然の到来、なのではないだろうか」

・そして、その〈忘れていた他者〉とは、神、を意味する

・存命中は、誰それも、忘れていたから、とか、みんなもそうしてるから、ということで、うやむや、に、免罪されるけれど、死のときは、どうやら、その〈言い訳〉が不可能らしいのである

・なぜなら、死のとき、は、責任を投げやっていた世界の側が不在になり、他人のせい、にできない

・まさに、死、とは、神なる他者の完全なる到来であり、そこに、たった一人で、立ち会う、ということではないだろうか

・約束していた他者のまえで、丸裸になること

・生自体、が、すでに、原約束なのであり、死は、原約束の履行、である

・つまり、死を、神との対面(約束の履行)、としたときに、生の発祥とは神との約束の取り結び、だったのではないだろうか

・だが、個人的な記憶のなかには、神と約束を取り結んだ記憶がない

・それは、そうだろう

・神はすべてのものにおける始原として神であるため、なんらかの生死の中間地点で、この自体性についての、アブダクションが行われなければならないのかもしれない

・そもそも自分が生まれたのは、両親よりもっと遥かに"以前性"のことが起因しているわけであり、ビッグバンということも、物理学的公理系における、はじまり、に過ぎない(生物学的にも同じく)

・結局は、神、という人間の捉えられない原公理において、すべてははじまり、おえる、ということが、〈まあ、どう考えてもそうだろう〉

・この〈まあ、どう考えてもそうだろう〉性は、驚愕的に受容されざるをえない、〈まあ、どう考えてもそうだろう〉性なのである

・始原や原理において、科学は? 宗教は? と、公理系を、神という語に対して、充てがっても、神という語が、すでに語義的に、"すべての公理系を超える公理以上的なもの"でしかないので、結局は、すべての〈信じる性〉を、突破ないし、棄却して、〈信じるに値するものは神しかない〉ということになる

・何を言っているかと言うと、そもそも〈信じるに値するもの〉は、神以外に、ない、ということを提出していることになる

・人間的には、最後には、自分の生死(ないし、その生死の狭間の自分)を、信じられるものの最後に設定する(コギトやモナド的なもの)。だが、単に、そう、単に、「〈生死〉という公理系が、なぜ、そもそも、あるのか」、とただ、そう問うたときに、残る語は、神、しかない、ということに、ならざるを得ない。

・まあ、つまり、信じるか信じない以前性、において、原信じる性をすでに人間に確約しているのが、神、という合言葉性なのだと思われる

・この、原信じる性、こそが、死、ということが、神の到来であることを、常に想起させる

・そもそも、生物学的な死による決着、ということを本当に、信じたのであれば、即、膝から崩れ落ちて、人間は一切、何もしなくなるだろう

・生物学的な死による決着、など、そもそも、史上、"ほんとうに"信じた人間などいるのか、と不可解になる

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?