アートメモ 信仰と芸術の関係性(アナロギア)について

■無制約者のまばたき

・つくるもの、見るものが、支配、することではなく、絵(の奥)自体、が此方を見つめていることに、此方が、まばたき、することによる、彼方の想起

・つくるもの、も、みるもの、も、彼方の想起をともなう

・これにより、つくるもの、はつくる必然性を、宙空のうちにおいてさえ、常に、アコルーティア的(背面聴従)に、想起し続ける、エペクタシス、である。この時点で、つくる動機を記憶領域から調達する、あの禍々しい、芸術家の枯渇的、自己完結的なナルシシズムは消える。照明、恵み。

・みるもの、は、また、絵画を捉える自らの視線の支配を、みつめかえされることで、より、大きな系に、解放される

・つまり、この際、つくるもの、は、形式の問題に閉じ込められることはなくなる。ティリッヒの神律的芸術にあるように、内実が形式を生誕させる、という、ことにおいて、形式自体は問題や課題、ではなくなる、ということになる(ティリッヒが表現主義に神律的芸術を見出したように、もはや、こちらから、絵画に枠組みをかけるのではなく、絵画の奥側から来たるものが、まさに、絵画の奥に背面的にあるものに聴従する、アコルーティアとして、つくるものは、描くことになる)

・この際に、もっともな、内実方面における、この、神律的芸術が、そうであるところのことを確約するのは、つくるものの〈自覚〉のみではないだろうか

・表現というときの表現とはある意味では、ベクトルが転回している

・たとえば、キリスト者であっても、そこに十字架やイエスの像を描くことは、ある意味では、キリスト者の頭の中のキリスト象徴を描く、という、始点に、自分、というものがある。この際、表象されるのは、「キリスト者である自分の思うキリストの像」という意味になり、見るものは、その奥に、作家としてのキリスト者を見出し、それ以上の想起に至らないということさえある。そういったものは、宗教の役割でしかない

・何かがあり、描く、のではなく、描くの先に彼方があり、その彼方が、描かせることで、描き、という受動態的な描画に特徴を有することになる

・このことは図り難く、つくるものがコントロールはできない、ところから、つくるものが導かれているという力関係による

・やはり、この事態性を指示しうるのは、確証や根拠の提示や証明ではなく、信仰による

・ミケランジェロがピエタを彫った(彫られた)ときの力関係におもう

・かといって、では、ファインアートの世界で、無制約者だとか、そういうことを表明することは、端的にナンセンスである

・この際に、この全景を、アナロギアとして、まさに、範例的に、ファンイン・アート世界に持ち寄るわけである

・こうなると、美、がアート界のイデアとして鎮座し、その美が、作品を描かせ、その描くところのものが、作家ということになる

・作家は信仰を深めるにあたり、アナロギア、範例的な関係性によって、アートを深める、ということにおもう

・つまり、神学と芸術(アート)は、アナロギア、によって、その関係を担保されることになる(分裂の極みにおける、分裂の解消)

・主は、信仰(神学)であり、芸術(アート)が、信仰(神学)に勝ることはない(アートは恵みでしかない)

・アートはこの世界の過ぎ去りとともに終末を迎える。信仰は残る

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