はいはい、カルチャーね

文化人になりたいな~と思う。
POPEYEとか買う。

そういう自分を遠巻きに見てバカにする自分がいる。
田舎もんがのぼせてますわ、何が「カルチャー」よ。

北海道の片田舎でのびのび育った卑屈さが自分の純粋な憧れを邪魔する。でもカルチャーと縁のない街で育った自分を切り離して捨て置くことはできないし。

かっこいいものとか真実だと思うことでもラベル付け、タグ付けされることで急にしらけてしまうことってある。
わりと大事な心の動きな気がするので無視もできずに立ち止まってしまう。

ケンドリック・ラマーの曲が好きでも、好きということでどこかに属してしまう。属する先が社会的に弱い立場なら表明することを躊躇しないけど、イケてる集団とかならこれを言うことで「自分、イケてますよ」と肩をそびやかすみたいでウッとなる。
さらには自分のそういう性質を知っているせいで、自分が何かを好きというときに躊躇しなければ、「あ、これを好きな集団を自分はイケてるとは思ってないんだ」という隠れた見下し?感情に気づいて落ち込む。
考える間もなく「好き!」と言える素直さを持ってたら違ったんだろう。
ただもう27歳なのでそういう卑屈な自分も許せるし、「しょうがないよ、一緒に生きていこうね」と背中を叩いてあげられる。ため息は出るけど。

音楽家の父とか、音楽が好きな親に連れられて行ったライブハウスで、とか。めちゃくちゃ自然でかっこいい流れで運命の音楽と出会うみたいな。いいな~~~そういうの。
世は大・階級社会!親はDの一族じゃなくて公務員だし私の街にライブハウスはなかったんですが?!と文句垂れたいとこだけど、ネットの海がすぐそこにある世代なので通用しない。
PC一個で自分の好きを突き詰められる時代ですもんね。
良い時代になりましたね。最悪。

属するのが怖いのは批判される怖さもあるかもな、と恐山さんの本読んで思う。構造的反・リベラルみたいな人がいて、リベラルの意見を批判するが自分の意見は持たずに連帯もしない。連帯しなければ批判の隙も生まれないから。
かっこ悪いなと思うけど、感情的には共感できる。
批判、されたくないもんな~。正しい批判は正しいし。正しいものほど痛いし、反論は疲れるし、正しいことだけ言いたいし。

できるだけ誠実に生きたいけど部分的な誠実さは存在しない。
間違えるならそれが真実だと思ったうえで本気で間違えたい。
2024、誠実の年にするぞ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?