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私と高田純次

理想の大人像というものをおもちだろうか。

私自身は、幼い頃からあまり誰かを追い求めるようなことはなかったように思う。

それどころか、確固たる夢や野望も持ち合わせないまま成人してしまった。

成人してだいぶ経ってから野望はもったが、あまり先例や先達もなく、理想をもつよりも妄想を広げてばかりの人生も、すでに中年である。

しかし、夢や野望とは別に、理想の大人像を抱くようにはなった。

高田純次をご存知だろうか。

平成の無責任男
テキトー男

…そんな風に呼ばれてもおかまいなしの芸風…なのか、人となりなのか…

街で声をかけてきた一般の方に「これで好きなもの食べて」と割り箸を渡した

とか

街レポしている時に「松嶋菜々子に似てるって言われたことない?ないの?じゃあ似てないんだね」と話しかけた

とか

本当か嘘かわからないけど、そんなこと言いそうだなと思わせる適当ぶり。

でも、言われた人が腹を立てることもないんだよね。

会話を潤滑油として使える稀有な存在だと捉えると、これだけ中身のない会話で場を和ませて人との和を築けるのもすごいなと思わせるフシもある。

どうも生真面目というか、馬鹿真面目なところがある我が身からすると、高田純次の適当さはむしろ羨望の対象である。

しかし、その適当とされる会話というのも、かなりレベルの高い会話であることに間違いはない。

裏打ちとなる知識と機智、間の取り方も絶妙だし、声のトーンや口調と言った表現も絶品である。

そして、何よりもその会話には必要以上の中身がない。

全部が全部というわけではもちろんないけれど、堅苦しい言い方をすれば、高田純次の会話には生産性がない。

でも、だからこそいいのだ。

今の世の中、会話に意義や意味や収穫を求め過ぎているのではないか。

かく言う私も、なまじやりたいことがあるばかりに、その実現に向けて意味や収穫のある“人脈”を求めていた時期があった。

その時期にそれを目論んでする会話には、やりたいことの熱意の発露と何かを得たいという欲が滲み出ていたのだろうと思う。

今振り返ってみればだいぶイタい。

やりたいことなど、自分で時機を捉えてやりゃいいだけの話で、その努力も展望もないままに広がる“人脈”が形ばかりになるのも頷ける。

いろんな人に出会って自分の幅を広げたいとは今でもこれからも思うけど、あくまで縁だから、そこに変な欲を載せるのは間違っていると今は思うわけで。

そうなると、自分の理想の姿は、高田純次になっていく。

何があったというわけじゃないけど、話していて楽しかった!
またお話しましょう!

と心から言ってもらえる大人になりたい。

そういう願望がある時点でまだまだな気もするが…

ところで、高田純次の会話について考えた時、ある本に書かれていたことって、まさにこれでは?と思った一冊がある。

田中泰延著・「会って、話すこと」

会話はギブアンドテイクでもウィンウィンでもゼロサムゲームでもない。ましてや勝ち負けなどでは絶対にない。

「会って、話すこと」p79

相手と、自分の、「間に発生」したことをたのしむ。前ではない、上を向いて話そう。あさっての方向に話を持っていこう。そうすることで、あなたは対人関係の息苦しさや、話の続かない気まずさから少しだけ楽になれるはずだ。

「会って、話すこと」p89

また、本著では、「根本的に、人は人にあまり興味がない」「会話は結局ボケていればいい」という指摘もあるのだが、高田純次の会話はまさにこれらのことの体現の一つといっていいのではないだろうか。

そして、それを体現するために必要な知識も、表立ってはいないが、垣間見える。

高田純次を目指すにはまだまだ年季と知識が足らず、真面目さが邪魔をするが、適当に歩んでいきたいと思う。

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