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ホームレスの人からもらったチョコレート

スーパーマーケットの広い駐車場の一角で、ベビーカーの横にチョコンと座った30代半ばくらいの女性が、バラを売っていた。

手には3本のバラ。
赤と、黄色とピンク。そして彼女の愛らしい笑顔。

いくら?
と聞くと、値段はついていないの、と私を見上げた。

ベビーカーの中では、2,3歳くらいの男の子が彼女に話しかける。
「ママ、お腹すいた」。

私はこの光景を、この1週間の間、何度も思い出す。

思い出すたびに、私に色んな印象を残すんだ。

言ってみれば、私はこの光景に、いくつものストーリーをひっつけてみることができた。

例えばひとつの私の大きな印象では、彼女はたいした一人の商売人だった。

はじめ、彼女を見たときには、私は彼女はたった3本のバラしか持っていないのだと思った。だから、その色とりどりの3本を、私は彼女から購入しようと思った。

それが、私より早く彼女に近づいた男性が、彼女から赤いバラ、1本だけを買い、5ドルを払った。
あと、2本になっちゃったな、そう思ったとき、彼女はおもむろにベビーカーの後ろから赤いバラを取り出して、再び3本のバラを手にした。

マーケットでは、だいたいバラは12本の束で、24ドルはする。

先の男性はバラ1本に、5ドルを払った。

「値段は決めてないの、幾らでもいいの」

彼女は黒い瞳を伏せながら、そう控えめに言うけれど、
もし私が1本を、マーケットで買うより安い1ドルを差し出しても、分けてくれるのだろうか?
まあ、そんな人は彼女のそばに近づいたりしない。それどころか、人々は値段を告げられない分、多くを一本のバラに費やす。

私がそこで彼女とやりとりをしている、短い間に、男の子は2度、
「ママ、お腹がすいた」
と、言った。

私の創るストーリーでは、それは彼女が意図的に彼にそう言わせているのではないかと、考えてみた。
あと、いくつのバラが、ベビーカーの後ろにはあったのだろう? 

彼女を商売上手と見ることは、私をしらけさせるのではなくて、逆にワクワクさせる。

どうか、そうであって欲しい、と私は願う。

元手は24ドル。

それを彼女は、最低でも3倍にはしていると思う。ひょっとすると、5倍くらいになってるかもしれない!

実際、スーパーマーケットから出たあとも、彼女の花屋は繫盛しているようだった。
これを機会に、彼女は商売に目覚めるのではないかしら、なんて想像を膨らませて、私は喜ぶ。彼女は自分の力で、豊かになる。
男の子は、あの後、いったい何をたらふく食べさせてもらっただろう?

町ではホームレスの人たちを、あちこちで見かける。

ただ座って、誰かが自分のカップにお金を入れてくれるのを待っている。
それも問題ないけれど、彼女や、50セントのジョー(下の記事)のように小さくとも、ひと工夫する人を見ると、私はついついにんまりして財布を取り出してしまう。それは私も商売人で、工夫することを考えているからだろう。

何年も前に、ホームレスを生業にしていた人から話を聞いたことがあった。
ハイウエイの出口が、彼のテリトリーだったらしい。
「ちょろいもんだったよ、あの頃は。よく儲けたよ」

そういうこともあるかもしれない。

私の息子が一人旅の途中、お金も、車のガソリンもスッカラカンになって、ガソリンスタンドで、他のお客に10ドルだけをお願いした。
するとその人は、息子の車のガスタンクを満タンにしてくれたらしい。

人は誰かに親切にしたい、役に立ちたい、喜ばれたい、という生き物なんだろうな、と自分のまわりを見渡して、思う。

与えることで、いい気分にもなるし、誰かの役に立てたという、自尊心も満たされる。
結局のところ、WIN・WINなのだ。

そして受け取ってくれる人がいなければ、私たちは与えることもできない。

私は、店で食事が余ると、夜、近所のホームレスセンターへそれらを持って行く。
人々はいつも喜んでくれて、あっという間に持って行ったものはなくなる。

先日行くと、一人の、見るからにホームレスと分かるいで立ちの女性が、私に近づいて来た。そして小さなチョコレートの包みをいくつか、私の手に握らせてくれた。

「いつもありがとう」、と言って。

人は、自分がどんな状況でも、分け与えたい、って思うんだな。
ちょっと泣きそうになった。


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