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紙とデジタルの文章リズム

今は、秋に刊行予定のエッセイ集の執筆をしている。

毎週さまざまなテーマでnoteに投稿してきた文章から、今回の書籍の企画に合うものだけをピックアップし、ただしそれはあくまで下書きやラフスケッチとして、タイトル含め全体的に改稿している。もちろん書き下ろしも加える。

noteの文章は、デジタルで読んで完結するものだから、普段は公開前に紙に出力して読み返すようなことはしていない。
だから、推敲のために文章をプリントアウトして読むことを、書籍化に取り掛かって初めてやったわけだが、紙の上で読むと、PC画面で読んでいたときより、自分の文章がちょっとだけ早口に感じて、あれっと思った。
こういう感じは、過去にあまり経験したことがない。いずれにせよ改稿するので、書き下ろしとリズムが合うように、ていねいに調整を加えるのだけれど、そもそもなぜそうした文章のリズムの違いが生じたのか。純粋に不思議で、少し掘り下げて考えてみた。

どこに価値を置いて読むか


そういえば、前作『直しながら住む家』にも、1年間出版社のサイトに連載したわが家のDIYリノベーションについての記事を再編集して収録した。そのときも、WEB連載時の原稿1本1本を、あらためて出力して読み返したのだが、長くてびっくりしたんだった。そのまま書籍に転載するには文字が多すぎるため、かなり削りながら手を入れた記憶がある。

でも、サイト上で公開していたときは、写真と一緒に読むせいもあって、そこまで長いとは感じなかった。読んでくださる方も、読み応えがあるとはいっても、まさかこんなに何千字も書き連ねてあるとは気づかずにサラサラと読んでくれていただろう。


たとえば人気ブログや、人気インスタグラムを書籍化した本で、SNSの発信としては魅力的だったのに、それが書籍になってみると、なんか違うな、と感じてしまうケースがときどきある。
そういう場合も、ひょっとしたら、デジタルから紙へのリズム感の調整がうまくなされていないことが原因の一つだったりするのかもしれない。

おそらく人は、無意識のうちに、デジタルで読むものと、紙で読むものに対して、価値を置くポイントを変えるのだ。

デジタルの閲覧は反射的でスピードも速いから、テキストを読む意識も、「どんな文章か」よりも「何が書いてあるか」が重要で、情報の内容が需要とマッチしていれば、まずは満足できる。
それにスクロールや横書きの魔法で、多少文章が長かったり、もたついたりしても、なんとなく読み切れてしまう。もちろん無料という点も読み手側の寛容さにつながるだろう。

でも書籍は、代金を支払い、時間をとって、想像力も使いながら、本の世界に入る。すると文章に対しても、うまいとか、好きとか、逆にどうもこの作家の文章にはノレない、などといった生理的な反応が起こりやすい。また文章を「味わう」といった感覚も生まれる。
もちろんデジタルでもそうした感覚はあるけれども、紙で読む場合の方が、より強く自覚しやすい気がする。

紙の本の未来をレコードに重ねる


いきなり話は飛ぶが、最近、ミュージシャンがアルバムやシングルのCDを発売するとき、数量限定でわざわざレコード盤もリリースする事例が増えている。
レコードでしか伝えられない、レコードだから表現できる音の世界というものがあって、それがわかる人はそう多くはないことを承知のうえで、それでも少しはいるなら共有したい、という願いがそこにはうかがえる。

わたしが物書きを今後も続けていけるなら、自分がつくる本は紙と電子版どちらでも手にしやすい方で読んでもらえたらと思うけれど、今まさに取り組んでいる、紙の本だからこそできるデザイン表現や、1冊の本をすいすいと流れるように読んでほしいと文章リズムを整えることは、ミュージシャンがCDや配信とは別に、オリジナルの音調整をしてまでレコード盤をつくることに少し似ているのかもしれないな、と思う。

そうした細部へのこだわりは、本といえば紙しかなかった時代は制作の醍醐味であり、本の価値を高める大きな要素でもあったけれど、デジタル化が進み、いずれそちらが主流になっていくなら、紙の書籍をつくることは、音楽におけるレコード制作みたいなことになっていくのかもしれない。
それでも、そこに魅力を感じてくれる受け取り手がいるかぎり消滅はしないし、むしろブームのように盛り上がる時代もまためぐってくる。そんな希望を、今の音楽業界におけるレコード人気の風潮に、勝手に重ねているのだけれども。

なんだかとりとめのない、だいぶニッチな話になってしまったが、こんなふうに、自分の脳と心と指先を1本の糸でつなげるようにして、日々パタパタとキーボードを打ちながら、思考がぐるぐると果てしなく旋回を続ける、そんな日々を送っています。

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