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「意識高い系」が存在しない世界

今年から、ヨガRYT200というインストラクター資格を取得するための講座を受講していて、週5日、毎朝2時間、ヨガを学び直している。
……という話をしたり書いたりすると、「どこまで極めるんですか」といった言葉が返ってくることには、もう慣れっこである。

これに関しても、最新刊『すこやかなほうへ 今とこれからの暮らし方』の冒頭のエッセイ『いいという思うことをやればいい』で書いている「ていねいな暮らしをしている人」と見られることに対する思いと、基本的には同じだ。

他人からどんな印象をもたれたい、という動機でなにか行動を起こしているわけではないから、「ていねいな暮らしの実践者」とか「意識高い系」とか、どう認識されても、それで喜んだり困ったりするわけではない。
わたしは自分の興味が向くこと、純粋にお腹の底から「これをやってみたい!」と思うことに次々と手を出している、ただそれだけなのである。

ヨガの資格をとりたいと思ったのは、インストラクターになりたいというより、自分のなかでヨガを体系立てて学ぶことによって、わたしが魅了されているこの世界を、しっかりと自分の言葉と体で伝えられるようになりたいと思ったからだ。

これまでは、「なんとなく、こういうことなんじゃないかな。わたしもプロじゃないからはっきりとはいえないのだけど」というニュアンスでしか語れなかったヨガの魅力を、ちゃんと自信をもって、堂々と語りたい。
そうした動機で学び直しているヨガは、やっぱりものすごくおもしろくて、氷点下の冬の朝の早起きもなんのその。毎晩、翌朝のレッスンが楽しみで楽しみでたまらない気持ちで、ベッドに入るほどだ。

朝5時に目覚ましが鳴り、ヨガウェアに着替えて簡単に顔と髪をととのえ、娘の朝食をつくってテーブルにセットして、6時にリビングに敷いたヨガマットの上からiPadでZoomをつなぐと、100人以上の受講生たちが画面にずらりと映し出される。

わたしも、みんなも、先生の話に真剣な表情で聞き入り、熱心にメモをとる。ポーズの細かい部分や、筋肉の動かし方について積極的に質問する。レッスン後の質疑応答タイムでは、自分が直面している仕事やプライベートの悩みを吐露し、こういう場合はヨガの考え方においてはどう対処すべきか、といった相談を持ちかける。もちろん参加者の9割はビデオをオンにして、顔も名前も出している。

わたしはこのなかの一人として毎朝の2時間を過ごしているいまの生活を、とても心地よく感じている。
ここには「意識高い系」という言葉が存在しない。
なぜなら全員が意識を高く持っていて、そうした分類など必要ないからだ。

「意識高い系」という言葉も「ていねいな暮らし」と同じく、そこに揶揄のニュアンスが含まれているケースが多々ある。

もはやわたしは、そうしたニュアンスこみで自分を認識されることに対してとくに神経質にはなってはいないけれど、でも、みんなが同じように向上心を高く持って早起きをして、身支度をととのえてZoomを立ち上げ、虚栄心も競争心も忘れてヨガを通じて自分自身と向き合っている、この場所に身を置いていることに、このうえない落ち着きを感じる。

フリーランスという働き方は、仕事相手を選べることで人間関係にまつわるストレスをある程度は回避できるぶん、社会的な視野も狭くなる危険性を指摘されることが多いけれど、わたし自身はその点についてあまり危機感をもってはいない。

わざわざ自分から取りにいかずとも、あいにく人間関係のトラブルは周期的に起こってしまうものだ。
だったら、いつまで生きられるかわからない一度きりの人生、できることなら自分が居心地よく感じる場所を選んで、なるべく長くそこで生きていきたいじゃない、って思う。

「意識高いね」「ていねいな暮らしって感じ」などのレッテルを貼られない、というか、誰も隣を気にせずに、自分の心身と真剣に向き合っている、このすこやかな世界で。


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