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親の言うことの受け止め方

新刊を出版すると、まず、親ときょうだいに渡す。
本をつくる過程で、子どもを預かってもらったり、おいしいものを届けてもらったり、なにかとお世話になるため、「おかげさまで今回もなんとか完成できました」と、お礼をこめて渡すのだ。

まだ著作が少ないうちは、家族の反応が気になって、「どうだった?」と感想を求めていた。「老眼には字が小さくて読みづらい」といわれたり、夫のイラストがなんともいい味わいだ、といわれたり。

でも、最新刊『すこやかなほうへ 今とこれからの暮らし方』は、そういえば感想を聞いてなかったな、とふと思った。

昨年からずっとバタバタしていて、本は直接自分で届けたけれど、実家でゆっくり過ごすことを、最近まったくしていない。
夫が義母の介護施設に行ったついでにわたしの実家にも寄ってくれるので、彼から両親の様子を聞いて安心しているのと、LINEのやりとりはしょっちゅうしているため、気づかなかった。

削ったほうがいいと言われた文章があった

ある日の夫婦の会話で、「そういえば親から新刊の感想を聞いてないんだけど、なにか言ってた?」と夫に聞いてみた。
すると、「そういえば」という顔をしながら「1箇所だけ、どうしてもひっかかるところがあるって言ってたよ。それ、伝えてほしいって言われてたんだった。忘れてた」。

母なりに、わたしに直接言うと角が立つからと、夫経由で伝えたらしい。

母が指摘している箇所は、わたしが推敲を重ねるなかで、いちばん悩みながら書いた部分だった。
ゲラを読み直すなかで、ここを何回修正しただろう。
そしてようやく「これでいこう」と思って送り出した文章だった。
それでも、母にはひっかかったらしい。
「削っても伝わるだろうし、重版するなら、そのときに直したら、って言ってたよ」。

夫は、わたしがその部分を書きながら、さんざん悩んでいたことを知っている。だからそのことも母に伝えたという。それでも、母からの伝言をあずかり、わたしに伝えてきた。

わたしはまた悩んだ。それを聞いたのは、まだ重版が決まる前だったけど、きっと今回の本も重版できるだろうという予感はあった。ということは、母の言うとおり、直すチャンスはある。

日を置きながら、そのエッセイの前後を3回、読み返した。
3回目は、重版が決まり、担当編集者さんから「修正箇所があるなら◯日までにご連絡をください」とメールが来てからだった。

悩んで、最終的に、「直すところはありません。このまま重版してください」と返事を送った。

書く目的は親孝行ではない

このことについて、その後も母とは話をしていない。
母も、それほど大ごととして考えていないかもしれない。いや、どっちだろう。悲しむだろうか。なんて頑固な子だと残念に思うだろうか。いろいろ考えながらも、わたしは直さないと決めた。さんざん悩んで、直すならどうするかという可能性も探ったうえで、この文章でいくと決めた。

作品が世に出て、親や家族が喜んでくれる。
少しは親孝行ができたかなと思う。
それはそれでわたしの心を満たすけれど、もう、それが目的ではないのだ。
わたしは今、もっと広く深く、読者の心に届く文章を書きたいと思っている。
ときにそれが親の理解を超えたものだとしても。

でも、自分が選んだ表現が、親の心に小骨を残したという事実は、正面から受け止める。そして実際に声は届かなくても、同じように感じた読者も少なからずいたのだろうと、想像する。

その思いを内に抱えながらも、自分の足で、書く道を進むのだ。

親から言われたけど習慣化をあきらめた話


ふと思い出したことが、また一つ。

娘が保育園に通っていた3歳くらいのころのこと。
母に「朝、うんちをする習慣を、小さいうちにつけておいたほうがいいわよ。そうでないと、あなたみたいに便秘症になるから」と言われた。

長年、便秘に悩んできたわたしは、娘に同じ轍を踏ませたくないと、翌日からさっそく、登園前にトイレに座らせる習慣を加えた。
ところが、そうそう都合よく、娘は朝から排便をしない。その10分の新しい習慣によって、朝時間がいっそうバタバタするうえに、結局うんちも出ていないというモヤモヤ感が、わたしを苦しめた。
あれは何日続いたんだろう。結局、習慣化する前に、あきらめた。

あれから10年が経ったけれど、娘は、わたしと違ってこれまで便秘に苦しんだことがほとんどない。
朝必ず排便する習慣もないけれど、毎日どこかの時間では出ているという。
あのとき、モヤモヤがイライラに変わる前に、さっさとあきらめてよかったんだと思う。

親の言うことは、他人は言ってくれないことであり、愛情や心配から生まれているものでもある。だから、ありがたい。

けれど、全部に従わなければいけないわけでもない。
従うことが、よき選択ともかぎらない。
ありがたい声を聞きながらも、最後は自分で決める。

わたしの小言を右から左に聞き流す娘を見ていて、「まぁそういうものだよな」とどこかであきらめているのは、たぶん自分が、こういう人間だからだ。


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