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しあわせな顔で隣の席を空けておく

10代のころからおしゃれやインテリアが好き、かつ理屈っぽい性格のせいで、親しい人には「こだわり屋」と言われてきた。

ファッション誌や音楽誌をすみずみまで読み込み、想像力をフル稼働させ、服でもインテリアでも「適当に選ぶ」などという言葉はわたしの辞書になかった。

何かを選ぶときは必ず自分なりの理由があって、納得感を求めてきたし、それは今も基本的には変わらない。
けれど、愛用品ひとつひとつに対して「どうしても他では替えがきかない」と心酔しているかというと、実はそんなことはない。

なければないで、他に、選べるもののなかから、今ベストだと感じられるものを選ぶ。そんなだから、何に対しても偏愛という感情を持たない。自分でも、わりとクールで、ドライだなと思う。

「適当に選びたくない」というこだわりはあるけれど、「これでないと」というこだわりは、ないのだ。

「これがないと楽しく生きられない」と信じ込んでいたものが、実はまったくそんなことはなかった、という代表例が、わたしにとってはお酒である。

「ソバーキュリアス」すなわち「しらふへの好奇心」を実践して9か月。
体質的には強すぎるってくらいにお酒に強く、しかも大好きだったのに、人生後半のライフスタイルへの好奇心や向上心から、明るく前向きにアルコールを断っている。

飲まない人生なんて想像するだけでつまらない、と信じていたのに、やってみたら、拍子抜けするくらい、まったくそんなことはなかった。
飲んでいたころには知らなかった楽しい日々が、今わたしの手の中にある。いったい何を根拠に、あんなにかたくなに思い込んでいたんだろうと、自分で呆れてしまう。

また、『すこやかなほうへ 今とこれからの暮らし方』に収録しているエッセイの感想のなかで、よく言及していただく話の一つに、「オーガニックコスメから基礎化粧品を無印良品に変えてみたところ、肌の調子にとくに変化はなく、むしろ惜しまず使えるぶん調子がいいくらい」と書いた箇所があるのだけれど、

つまり、日々の楽しさをつくっているのはお酒だけじゃないし、肌の調子をつくっているのは基礎化粧品だけじゃない。いろんな要素がつながりあい、補い合っている。
その構成要素の一つを省いてみて、その分だけハッピーが減るかというと、そういうわけでもない。

たとえばパートナーがいない時期に、一人で出掛けてみると、ぽっかり空いた隣の席には、新しい素敵な人が「ここ、いいですか」と声をかけて座ってくる……かもしれない。少なくとも、そういうチャンスはある。

でも、となりの席が埋まっていたら、そこに座る相手に内心なんらか不満を感じていたとしても、新しい素敵な人はあっという間に目の前を通り過ぎ、別の空席を探しに行ってしまう。

だから、何かを手放した身軽さをかみしめながら、しあわせな表情で(表情だけでなく心からしあわせを感じて)隣の席を空けておけば、以前より同等以上のしあわせが、必ずそこに座りに来てくれる。

なんだか今日は、終始、抽象的でまとまりのない話になってしまったけれど、とにかく、こだわり屋であろうと、実際はそうでもなかろうと、「これがないとしあわせに生きられない」というものは、たぶんわたしにはないんだということ。

自分のことは、自分で簡単にしあわせにしてあげられる。
というか、そういう人になりたいと思う。
そのために、つねに中庸でいる力を、これからも鍛えつづけていきたいと思います。

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