大人の反抗期を抜けた先に
もともと身勝手な性格であることに自覚はあって、だから過去にも、誰かの役に立ちたいとまっすぐに思える人や行動できる人がまぶしかったし、そういう話をnoteでも書いてきた。
でも昨年あたりから、自然に湧き起こるようにして、誰かが喜んでくれること、「助かった」って言ってくれることが、すごくうれしい。
はたして自分ってこんな人だったかな、と戸惑うくらいに。
きっかけとして心当たりがあるのは、占星術家のKeikoさんが「自分がしあわせになるには周囲もしあわせでないと」とよく話されていて、それは本当にそうだ、と納得したこと。
人のしあわせは、他者とのかかわりのなかで生まれる。
自分になにかラッキーなことが起きても、身近な人や大切な人が困っていたり悩んでいたりしては、心から喜べない。
自分にもみんなにもいいことが起こる、それが人をしあわせに導くと今は考えている。だから、自分にできることならばやって、喜んでもらえたらうれしいし、その思いでわたしもしあわせになれる。
こんな当たり前のこと、なぜ数年前までできなかったんだろう。
とにかく「自分がやりたいこと」「でもやれていないこと」で頭がいっぱいだった。
子育て、とくに娘の中学受験に伴走する生活で、思うように仕事ができないとくすぶっていたこともたぶん大きくて、「やりたいのにやれない」という不満や葛藤でいつもパンパンだった。
それでも、小石を積むようにして自分の作品を出しつづけながら、40代をなんとか終えた(あと4ヶ月残っているけれど、もう気持ちは40代にさよならを告げている)。暗く長いトンネルを抜けたとき、わたしは以前とは少し違う人間になっていた。
相変わらず、根本的には身勝手だけど、「誰かが喜んでくれることがうれしい」と素直に思えるようになっていた。
それは、選んだ職業も、フリーランスになったことも、住む場所を変えたことも、すべて「自分がやりたいようにやる」をとことん貫いた先に、気づけば立っていた場所だった。
そう考えたら、わたしの40代は、親や社会といった見えやすい相手のいない反抗期だったのかもしれない。
一人でもがいて、苛立って、それでも何かにかじりつくように「やりたいこと」をそのときなんとかやれるかたちでやって。
そうした混迷期をなんとか乗り越えたら、50代の入り口にいて、新しく出会う自分より若い人たちのために、何かできることがあれば手を貸したいと思っている。
そう考えると、反抗期ってやっぱり、ないよりはあった方がいいものなのかもしれないな、と思う。
その最中は自分も周囲もしんどい思いをするけれど、その時期を抜けたら、大なり小なり、なんらかのよい変化や成長を遂げているのだから。
それにしても今、心身がラクなのは、それだけ反抗期がはげしかったってことなんだろう。
子育てをしながら反抗期を迎えている40代なんて、我ながらめんどうくさいなって思うけれど、それが自分である以上、受け入れるしかない。
このめんどうくさい自分を見捨てず付き合ってくれた家族や周囲やすべての人たちに、これから恩返しをしたいという思いも、「自分ができることはやって喜んでもらいたい」という気持ちにつながっている。
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