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体重33kgの母親

なぜこの話を書こうと思ったのかは分からない。

2011年11月、私の母親は52歳になってわずか数日で急性心筋梗塞でこの世を去った。

ここでは私の母親が亡くなるまでの数年間の話を書いていきたいと思う。

もう一度いうが、母の死後、12年2ヶ月経った今、この話を書こうと思ったのかは分からない。

この話は、私の母の、そして私の極めてプライベートな話であり、人に話してよいかどうか未だに分からない。

でも思い返すと、母の死には、

・教員の多忙化

・ヤングケアラー

が関係していたのではないかと2024年の今になって思うからだ。

人は極端に成功したり、極端に困難に陥ってたりすると自分の置かれている状況が分からないことが多い。

渦中にいる時には自分が今何に直面しているか全く分からなかったが、12年以上の時を経て私は事実を語るだけだ。

ただこれから語る、10代の私が抱えたいたものと同じような問題に当てはまると思った方は、すぐに頼れるところを探してその状況から抜け出して欲しいと思うのだ。


私の母はまことに美貌の人であった。

高校で教鞭を取っていた母は、いつもいい匂いをまとい、完璧に装っていた。

私が高校2年生から3年生になる頃、そんな母が食事をどんどん摂れなくなっていた。

詳細な説明は省くが、その時、私たち子供と母は、4年前から父が住む家とは別の家で暮らしていたのだが、子供たちに食事を作っても母は食べない。

心配して「食べないの?」と聞いても「要らない」と言われ気まずくなるだけだから何も言えなくなっていた。

2006年6月の第三月曜日の朝、母はベットから起き上がれずに仕事を休んだ。

火曜日も休む、水曜日も休むと繰り返しているうちに、母は職場の学校に行けなくなり、2009年3月末まで休職することになる。

母は自分で病院に行き、鬱病と診断された。

私たち子供には言わなかったけど、おそらく重度の摂食障害でもあったと思う。

母は寝室でずっと寝ており、私たち子供の食事だけ作りに台所に降りてくる。

うちに遊びに来た友人が母の姿を見て「何あのガリガリ!」と何気なしに言った言葉に傷ついたが、その時の母の体型は、表現が適切ではないかもしれないがアウシュビッツの囚人のようであった。

当時、私は17歳の高校3年生であり、大学受験を控えていた。

だんだん家事ができなくなる母に代わり、学校に行きながらできることはやっていた。

父になぜ頼らなかったのかというと、弱った姿を見せたくない母がそれを頑なに拒んだからである。

今思えば間違いだったのだが、当時はまともな判断ができていなかった。

私も父に何も言うことなく、母のことを隠し続けた。

学校は違うものの、同じ職業に就いている父の耳に母の休職の事実はもちろん知らされる。

「本当に大丈夫なのか、今すぐ家に帰ってきて」と言われたけど、母の意思もあり「ただの更年期障害で体調を崩しているだけだ」と伝えた。

2006年8月、母は「いつ心臓が止まってもおかしくない」と言われ緊急入院した。

その時の母の体重は33kgだった

身長は160cmである。

栄養が足りていないせいか、鬱の薬のせいか、母は病院の中でもよく転倒し、手足は痣だらけになっていた。

聞けば、子供たちがいない時に家でもよく転んでいたという。

圧倒的な栄養不足で痣がなかなか消えない。

2006年夏から年末にかけて母は入退院を繰り返していた。

その時、自分がお金や食事をどうしていたのか全く記憶にないし、おそらく母が退院している時に色々手配していたと思うのだが、学校には普通に行っていた。

学校での人間関係は良好で、仲の良い友人も恋人もいたのだが、母のことは誰にも言えなかった。

だんだん気温も下がり、周りも受験一色になる頃、確かに自分は勉強しているのだけど、本当に大学に行けるのかよく分からなくなってきた。

その頃だっただろうか、ふとしたタイミングで担任の先生と保健室の先生には「実は母は更年期障害ではなく鬱病である」と言うことを伝えることができた。

でも何か生活が変わったわけではない。

年が明けて2007年1月、私のセンター試験が終わった時、瀕死の状態だった母は、何度目か分からない入院をすると共に、ついに子供たちを父の家に行かせることに決めた。

4年数ヶ月ぶりに父の家、と言っても自分が生まれ育った家に戻り、真っ先に思ったことは「あったかい」ということであった。

当時、まだ70代だった祖父母が家を切り盛りしていたこともあり、家の中は整然としており、冷蔵庫の中には食べ物がたくさん、灯油もたっぷり、ふかふかの寝具も当たり前のようにあり、真冬でも家の中はポカポカであった。

このような環境は母が病気になる前には当たり前のものとして母の家にもあったものだが、しばらく忘れていた。

母が寝付いてからというもの、毎日掃除をしているにもかかわらず、家の中はなんとなく「黒い」のである。

寒い、食べ物が十分に冷蔵庫にない家、そんな環境が数ヶ月の間に自分の「普通」になってしまっていた。

私たちが父の家に戻った日の夜ご飯に、祖母は鮭とキノコの豆乳煮を用意してくれていたことが覚えている。

もちろん母の家でも母が台所に立てる時には何かしら食事を用意してくれて、私自身でも何か作って食べていたのだが…

祖母の作った夕飯を食べながら「救われた」と思った。

比べるのもおこがましいと思うが、大学に入った後にプリモ・レーヴィの『休戦』を読んだ時にこの時の夕食のことを思い出した。

2007年2月、国立大学の前期試験を受験したが、私はあえなく第一志望の大学から不合格の通知をもらい、後期試験を受験することなく浪人することに決めた。

年度が変わり、一応退院できるようになっていた母は、父の家に戻らないかという申し出を受けず、母娘が数年間住んだ家を引き払い、一人用のマンションを借りて引っ越しした。

18の春から都会で大学生活を送る友人たちを尻目に、私は自宅でZ会や参考書をひたすらやるという浪人生活をスタートさせた。

結果的に私が第一志望の大学に合格したのは2009年春だったのだが、その間に私と母はこれまでの時間を取り戻すかのように色々な話をした。

母の病状がよくない時もあり入院している時もあったのだが、子供と父とは適切な距離を保ちつつ、自分は一人の空間にいるということが母の精神にとってうまく作用したのかもしれない。

薄紙をはぐように病状は改善し、母はものを食べることができるようになっていた。

でも、母が子供たちに見せていた顔と主治医の前で見せていた顔はもしかしたら違ったのかもしれないし、まだ母は「治りたくなかった」のかもしれない。

ともあれ母は約3年間の休職期間を終え、仕事に復帰した。

母が亡くなるまでおよそ2年と8ヶ月前の2009年春のことである。


学校の名前など特定されるとよくないと思うので簡単にしか書けないが、母が勤務していた高校は、「超」多忙な進学校であった。

1限目の前に0限目と称して朝の補修があり、5-6限目の後にも7限目、8限目としての補修がある。

土曜日にも補修がある。

すでに40代の終わりであった母が体力勝負の部活を担当することはなかったが、より若い先生はさらに部活動の顧問も担当していた。

2000年代、自分が中高生だった頃を思い出すと、いつの間にか学校に来なくなっていた先生がいたことを思い出す。

2024年の今、教師不足や教師の心の病気が表立って語られるようになり、今もこの問題の解決の糸口が見えない状況であるが、2000年代といったら「先生が鬱になるなんて」という時代であった。

そのような負い目もあっては母は、誰にも病気のことを言えず、人に頼れなかったのかもしれない。

結果的に母は、鬱病ではなくなったわけではなく、急性心筋梗塞で亡くなった。

母が亡くなった後、母のカウンセリングを担当していた主治医に話に行くと「びっくりした、知らせを聞いた時、最初自死したかと思った」とその先生は言った。

その時、私ははらわたが煮え繰り返るような思いであったし、この人の言葉を一生忘れないと思う。

でも母は、鬱病を発症した時からゆっくりゆっくり死んでいったのだとも思う。

鬱や摂食障害によって弱った体、呆気なく心臓が止まってしまった。

逆に、2006年に鬱病を発症してから、2011年に亡くなるまで、母は生き延びてくれたのだとも思う。

鬱病によって母の頬は極端に痩け、目はうつろに、儚げになってしまった。

母の葬式の時、母が最も美しく、大輪の花のようだったと私が判断した時の写真、30代後半の頃の写真を遺影に選んだ。

病気になってからの母しか知らない先生は、母の遺影を見て「本当はこんなお顔の方だったのですね」と言ってくれた。


またその頃には「ヤングケアラー」という言葉はなかった。

家族の看病や介護で、ごく普通のサポートが受けられず、学校生活にも支障をきたす子供たちの問題が表面化し、「ヤングケアラー」という言葉が当てられるようになったのはいつからであろうか。

多分、私はヤングケアラーだったのだと思う。

結果的に私は生き延び、自立した大人になることができた。

高校生のあの時、もっと色々な人に助けを求めに行っていたら違う未来になっていただろうか。

もしこれを読んで、今自分が苦しいと思った人は、どこか相談できるところを探して欲しい。

学生の人は、信頼できる学校の先生に話し、然るべき機関や組織に介入してもらうようにして欲しい。

とにかくそのような人たちになんとか生き延びて大人になって欲しい、私はそう思っている。


私と母、母の職場にて


追記:

事実を書くと言っておきながら、私の兄弟のことは触れていない。

なぜならばその兄弟のプライバシーにも関わるからである。

この話はあくまでも私と母の話に絞って書いたものである。




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