ちゃんとしてない方が好き

何かのとき、彼女に
「もっとちゃんとするね」
と言ったら、
「ちゃんとしてない方が好きなんだけどな…笑」
と言われた。

その時は思わぬ返しにびっくりしてしまったけれど、1日経って思い出していると、じわじわとあったかい気持ちになった。


よく、
「ちゃんとしなきゃ」
と思う。
というか、そうしてしまう。
ちゃんとしなければ、居場所をなくしてしまう
そんな風に思うクセがある。

僕は15歳になって高校に入るまで祖父母の家に預けられていて、
その間、両親と一緒に住んだこともないし、家族旅行も行ったことはないし、遊んだ記憶もない。
祖父母は面倒みてかわいがってくれたと思うけど、どこか居心地のなさや、他の子たちと比べた違和感やうしろめたさをほとんどいつも感じていた。

祖父母、特に祖母は僕に、
「いい子だ、いい子だ」
とよく言った。
何をもっていい子だったのかはわからない。
ただ、何となく覚えているのは、静かにして、わがまま言わず、手伝いをして、テストでいい点とって、そんな「ちゃんとした」感じのことをしている
そんな感じの小学生だった時に言われていたような気がする。
そうやって、「いい子」でいれば存在していてもいい、居場所が与えられると思うようになった …のだと思う。


そうやって確保してきた居場所を失うことを、無自覚に恐怖していたんだと気づくのは、それから30年以上も先の話。

僕は、
誰かにとっての「いい子」でいることで居場所を感じ、
それで満たされなくなると他の誰かに「ちゃんとした人」であるように振舞うことで居場所を感じ、
それで満たされなくなるとより嘘をついて自分を大きく見せて「正しい人」「すごい人」を演じて居場所を感じ、
それで満たされなくなると「ちゃんとしていない人」を見つけることで居場所を感じ、
それで満たされなくなると「ちゃんとしていない人」を「ちゃんとしろ!」と責めることで、お手軽に居場所にしがみついた。

僕は何が好きなのか、何がおいしいのか、何がきれいだと感じるのか、何がおもしろいと思うのか、何がかっこいいと思うのか
そういうことは見なかったふりをして、「ちゃんとすること」を選んだ。

そのうちに、何をしたら僕が満たされるのかもわからなくなり、そういうことを感じること自体もわからなくなった。
「何をしたいかわからない」「何をしたらいいかわからない」
満たされない混乱と虚しさ・さみしさを、「ちゃんとすること」で埋める日々が続いた。


そうなり始めた時から30年40年経った今も、それは確かに続いている、と思う。

けれども、
過去が過去になり、そのことを確認していって、
こんなこともできないのかとか自分に対して思ってしまう僕自身にたびたび足をつかまれながらも、
何年かをかけて少しずつ僕と向き合おうとしてきて、
「ちゃんとしていないあなたが好き」
と言われて、あたたかい気持ちになる僕に気付くくらいにはなった。

本当の居場所はきっと、目を逸らしてきた僕の声に心をゆだねて、僕の頭と体でつくってゆくものなのだということも、ようやくおなかに馴染んできた。

今はたぶん、僕が僕の心を満たすように、生き方をつくるところにいる。
ちゃんとしていない僕も、ちゃんとしようとしてきた僕も、少しずつ糧にしながら。

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